引用元:軍事板「あなたのおじい様の戦争体験をおしえて その3」
http://hobby3.2ch.net/test/read.cgi/army/1072443282/
431 名前:
名無し三等兵[sage]投稿日:03/12/30
15:35 ID:???
厨房の頃
日に何回も飯の催促をして家族のお荷物扱いだった
ボケじいちゃんに思い上がっていたオイラは
「昔の話(戦前戦中)を教えてよ」とエラソーに
聞いたら、茫洋としてた目が急に真面目になって
「そんなこと聞いてどうする?、なんの目的で聞く?」と
激しく詰問口調であせった
オイラ的には祖父とマターリ会話をのつもりが
意外な反応に「なんでそんなに怒るの?もういい!」と自分から終わらせて
それがまともな会話の最後になってしまった・・
15年程たって祖母が入院した際
部屋を整理していた母が戦時中の祖父の品を発見した
支那事変従軍ナントカ記章
射撃大会の賞状
部隊の集合写真
実の息子である父も初めて見る物だった
今となっては確認しようもないが
敗戦で180°評価が変わり
軍時代のことは黙っていようと決めていたのだろうか・・
25 名前:
名無し三等兵[]投稿日:03/12/27 09:54 ID:AooC0iNY
俺が八つの時に死んだ母方の爺さん(歩兵伍長)、酒飲んで上機嫌になると、
「出てこいニミッツマッカーサー
出てくりゃ地獄に突き落とし〜」
かなんか歌ってた。(ほんとにあるんですかこんな歌?ジジイのオリジナルか?)
それと晩年のボケてたころ、炬燵の布団に煙草の灰を落として焦げ痕作りながら
頻りに衛生兵を呼んでた。「エーセーヘー!エーセーヘー!」と叫んでたのを憶えてる。
(デング熱でビルマの野戦病院に入ってたらしい)
父方の爺さんは肺病みで兵役免除。
終戦後すぐ、うちの親父が物心つく前に亡くなっているので、
況や俺の記憶に残ろうはずがない。
どちらにしても、もっと長生きしてくれてたら色々話を聞けたのにな、とは思うが仕方ないか。
27 名前:
名無し三等兵[sage]投稿日:03/12/27
12:31 ID:???
みんなじいちゃんの遺品に軍人手帳は残ってなかったの?
いつ入隊してどこに派遣されたのか詳細にわかるのに・・・
30 名前:
名無し三等兵[sage]投稿日:03/12/27 16:48 ID:???
>27
母方の爺ちゃんは終戦直後に燃やしてしまったらしい。
隣に住んでた役場の兵事係の人が、
「憲兵の経験のある人は戦犯で捕まえられるらしいから軍隊手帳は燃やした方がいい。
役場の方でも関係書類を燃やしてるから。」
と言いに来てくれて、3ヶ月間だけ補助憲兵をしたことのある爺ちゃんは庭で燃やしてしまったそうな。
おかげで(?)捕まらなかったけど、手帳がないもんだから軍人恩給が復活したときに手続が遅れて
他の人より半年くらい受給が遅れたと言ってた。ちなみに今も元気でつ。
53 名前:
名無し三等兵[sage]投稿日:03/12/28 00:21 ID:???
祖父は日米開戦の前に大陸に出征し、負傷して帰ってきました。
百人強の部隊で、生存したのは十人にも満たなかったとか。
大砲の音で片耳の聴力が低下し、今も足には弾が残っているらしい。
満州の田舎で、子供を亡くして悲しんでいる中国人一家に
遺体を包む白い布をあげて感謝されたそうです。
大叔父にあたる人は、昭和19年に特攻で亡くなったそうです。
本州の基地から沖縄に向かう途中、スパイのせいで打ち落とされたと
祖母(大叔父の姉)は言っています。
私は医療機関に勤めているので、じいちゃん達と沢山お話します。
仲良くなったじいちゃんがぽろりと戦争話をされる事も。
今やものすごくマターリした人が昔は(自称)鬼のような将校だったり
腕のいい軍関係の技術者だったり。
戦犯になって辛酸をなめたもんだ…と仰る方も。
人に歴史あり、とは本当だと思いました。
しかしリアルで戦争を体験された世代は強いですね!
軍事の事には詳しくないのですが、このスレはよく拝読しています。
要領を得ない上、長々と失礼しました。
80 名前:
名無し三等兵[]投稿日:03/12/28 15:35
ID:U/B0vbkT
家のじいさんはインパールから帰ってきた本当の生き残りです。
少尉でしたがたいへん機転がきき、イギリス軍の鉄砲弾薬を
使って(奪って)戦ったとのことでした。しかし、もう87歳
俺は貴重な体験を文章に残してくれとお願いしています。
155 名前:
名無し三等兵[]投稿日:03/12/29
13:47 ID:k5F/laRy
祖父は東京湾だか川崎で高射砲を撃っておりました。基本的に戦中の話はしない人でしたが、
時々「B29を2機撃墜した事がある、隊長の指示で1機目がけて一斉に撃つんだ。」とか
「何度か飛行機に撃たれて死にかけた」とか、当時祖母と新婚だったので「ばあさん残して行くのは辛かった、アメリカと戦って勝てるとは思わなかったが召集されれば行くしかなかった。」と語っていました。
又、戦友から年賀状をもらうとあいつは食料盗み食いして隊長から怒られてたんだ、さんざん怒られた後(暴力はなかったらしい。)隊長が羊羹そいつにあげてたんだよ。と今見て来た様に楽しそうに笑ってました。
そんな祖父も鬼籍に入り、
残ったのは召集された時の部隊写真だけ(良く探せば他にもあるかもしれませんが)。祖父がボケて老衰で死ぬ半年前「爺ちゃん、何か欲しい物無いか?」と私が言うと虚ろな声で
「帝国海軍の飛行機と軍艦持って来い」と言って居りました。
302 名前:
名無し三等兵[]投稿日:03/12/30 06:30 ID:uONkJ2qb
「男でも国家でもたとえ・・負けると分かっていたとしても戦うべきときというのは
あるのだ。鎮西の男児たる者、後世の日本のために死ぬまで戦う、そういった覚悟さ
えあれば足りる」
第12師団第48連隊(久留米)の将校だった祖父の言でした。
308
名前:
('ー`)y-~~ ◆uZEEK0eJu.
[sage]投稿日:03/12/30 09:08 ID:???
私の爺さんの話をヒトツ
先日死んだ爺さんの遺品の中から爺さんの自分の生き様を纏めたのが出てきたので一部紹介
潜水艦に乗りたく 海軍兵学校を志望したが落第、数年後陸軍士官学校に入校 以後工兵
第19連隊に士官候補生として北朝鮮 会寧、陸士本科を経て昭和11年10月少尉
昭和12年 日華事変に出征 そのときに摂取したタバコ工場から一日200本ものタバコを
吸って悦に入ったそうで。その後戦病にて内地に移送。
なにをやってたんだか・・
438 名前:
('ー`)y-~~ ◆uZEEK0eJu. [sage]投稿日:03/12/30
18:11 ID:???
>>308 の続き・・
本土で 電信第二連隊にて復帰後 昭和14年大本営陸軍部通信隊 砲工学校
昭和17年 通信兵学校教導隊 有線電信隊長、昭和18年陸軍大学校58期
昭和20年 電波兵器生産技術研究機関である多摩技術研究所所員 企画担当
を仰せ付けられる。ただ一人の電波関係の企画行政組織として期待されるも
本人はこんな頼りない男が、と自責の念が強かったと書いてるw
439 名前:
('ー`)y-~~
◆uZEEK0eJu. [sage]投稿日:03/12/30 18:18 ID:???
>>308 >>438 の続き
昭和20年六月 陸軍航空本部 技術部、教育部兼任!を受ける。
先輩が一ヶ月に一人ずつ亡くなっていくのでその穴埋めに任された
格好である。
特に教育部は戦死の順番が決まっていた。(←これはちと意味がわかりません)
しかし当時としてはそれを当然のことと思い別に抵抗はなかったが
生きている時に立派な仕事をしなければという気持ちがあったと
述べてる・・。
昭和20年 8月終戦により退役
この当時の給料戦時加算で500円 退役ということで3500円を受け取った
これで何年分かと経理の女の子に聞くと・・「一生です」
戦時中の部位はこの位ですが、爺様の関係者はなかなか興味深い人が
多いです。爺様は長岡外史のプロペラひげを引っ張って遊んだことも
あるそうで・・またそれは今後・・
434 名前:
名無し三等兵[sage]投稿日:03/12/30
17:06 ID:???
うちの爺ちゃん、お尻に満州でくらった弾がはいってたなぁ〜
それを聞いた時に、ガキだった俺は、衝撃が加わると爆発するんじゃないかと心配だったよ。
亡くなって火葬した時、金属の塊が出てきたっけな。
体験談ではないので、sage。
436 名前:
名無し三等兵[sage]投稿日:03/12/30 17:35 ID:???
>>434
うちの身罷った父方のじいちゃんの背中にも12,7mmの破片がずっと入ってたのですが、
父親(じいちゃんの息子)が教えてくれなかったので回収できませんでした。
また、存命中はあまり戦争の話は聞いてません。
唯一聞いた話が、
「(じいちゃんはすごく背が低い)入営した時、軍服も軍靴もブカブカで合う物がなく、
恐る恐る教育係の上等兵に『換えてくれ』と言ったら『バカモーン!貴様が合わせろ!!』
とすごい勢いでブン殴られた。」
と言ってますた。その日入った新兵の殴られた1号だったそうです。
512 名前:
名無し三等兵[sage]投稿日:03/12/31 17:56 ID:???
俺のじいちゃんは歩兵連隊の機関銃小隊に配属されていたそうだ。
機関砲は殺傷力は大きいが、常に敵から狙われるので屈強なヤツ
しか配属されないと自慢していた気がする。
俺の父ちゃんは海軍特別年少兵だった。
戦争末期には毎日タコツボを掘っていたらしい。
じいちゃんも父ちゃんも軍隊経験があるが、先帝陛下に対する考えは
まるで違う。
じいちゃんはテレビニュースで先帝陛下を見るたびに「軍隊で苦労して
いないから(昭和天皇は)いつまで経っても腰が曲がらない」とぼやいて
いたが、父ちゃんは皇居に粟を奉納した事を今でも誇りとし、恩賜の煙草
も吸わずに大事に取っている。
763 名前:
名無し三等兵[]投稿日:04/01/02
22:35 ID:iKYdMK/v
それでは
正月実家に帰ってじいちゃんの戦争体験を聞いてきました。
昭和10年徴兵試験の甲種に合格
昭和11年支那に歩兵として配属
廬溝橋事件後、中支那派遣軍として、
○○上陸作戦(名前を忘れた)
南京攻略戦
徐州会戦
武漢作戦(じいちゃんは武漢を「ブカンチン」といっていたけど?)
第1次長沙作戦に参加後除隊(階級は軍曹)、勲章を2つもらったそうですが、
「こんなもん持ってるとまた戦争に連れて行かれる」と思って隠したそうです。
帰国後、ばあちゃんと結婚
大東亜戦争時に再徴兵されるが、年齢の関係で帝都防衛隊として内地(千葉県)に配属。
戦争末期、東京に爆撃に行く爆撃機が頭上を通って行ったそうです。
そして終戦
支那にいた時、満州のチチハルにも配属されていて、
「終戦時あんな所にいたらシベリアに連れて行かれて生きて帰れなかった。」
と、一言・・・(/_;)
あと、支那では毎日野原に宿営していてつらかったそうです。
今年で89歳になりますが、畑仕事をするほど元気なので、
また、実家に帰ったときにでも、当時の詳しい話を聞いてきます。
795 名前:
名無し三等兵[]投稿日:04/01/03 00:58 ID:p1jvyHtq
私の祖父は、造船技師でね。
当事の日本はアメリカとの戦争の最中だから、船は幾らあっても足りない状況だった。
だから国策として、船をどんどん作っていたから、当然、船を作る造船技師が本土で働かないと駄目
そんなわけで徴兵は免れ、日本国内で輸送に使う木造船を作っていた。
だから私の祖父も、祖父の周りの人たちも、戦争には行っていない。
その代わり、敗戦のおかげで作った船は全部沈められたわ。
国家が破産したもので、作った船の代金は支払われないわで、私の祖父が経営していた造船所は大借金を負って破産してしまったよ。
まあ。この当事はよくあることでね。
私の祖父の造船所以外にも、多くの造船所が同じ理由で破産してしまった。
うまく戦争での被害を押さえた造船所だけが破産を免れて、いまはそこが他の造船所を買収し、大造船所になっているのだけど、これが商売ってもんだな。
851 名前:
厨[sage]投稿日:04/01/03 21:29 ID:???
自分の祖父は、潜水艦勤務であったのは知っていたのですが、先日詳しく話を聞きました。
すると、いつもはぼうっとしている祖父が生き生きと当時の状況を話してくれました。
祖父は昭和17年に海軍に志願、横須賀の海兵団に入隊し、訓練。
祖父曰く「海軍は訓練で1人でもずるい奴がいれば負ける。団結が大事」と話していました。
漕艇訓練では七番以下はバットでしごかれた、と言いました。
また、陸軍の兵隊は要領が悪い、という話を聞いたと言っていました。
輸送船が沈没する時、歩兵銃を死ぬまで持っているわ渦のある方へ飛び込むわ、
とにかく海軍は大事の時にはさっと動けるんだ、とうれしそうに語りました。
ちょっと風呂入ってきます。くだらん話で失礼。戦闘の話は後で。
引用元:軍事板「あなたのおじい様の戦争体験をおしえて その4」
http://hobby3.2ch.net/test/read.cgi/army/1073145949/
82 名前:
名無し三等兵[sage]投稿日:04/01/06 21:44 ID:???
徴兵されて大陸行き。南方に行くことになるんじゃないかとびくびくしてたらしい。
大陸に行くとなったときは心底ほっとしたらしい。大陸では特になにもなかったそうです。
毎日毎日なにもなくてつまらんと思っていたそうです。そのためまともな
戦争らしい話は何も聞けませんでした。
とはいえ、一回だけ馬賊と撃ちあいになったそうです。そのとき怖くて引き金をまとも
に引けなかったそうです。自分の撃った弾丸で人が死ぬのがおっそろしくて、なるたけ空を向け
人にあたらないようにしてたらしい。
「それじゃ撃たないほうがましじゃない。弾勿体ないだけじゃない?」
との漏れの突っ込みに対してそういやそうだなあと笑ってました。
その馬賊はこっちを共産党と思っていたらしく日本軍とわかるとさっさと引き上げた
そうです。『共産党って嫌われてるんだなあ』とみんなで話し合ったそうです。
あたらないように上に向けて撃ってるの上官にとがめられて、
「いや、銃の反動が強くて・・・・・・」
とかいってごまかそうとしたら、
「その図体でなんだ。」
と殴られたらしい。(祖父の身長は175cmくらいで昔でいえばかなり大きい部類でしょう。)
でも、上官も一応分かってたらしくてあんまり本気で殴ったりはせず、みんなの手前
殴る姿勢をみせとかにゃ程度のものだったらしい。職業軍人はいざしらず徴兵で来たの
はそういう人(空に向けて撃つような)が多かったらしい。
83 名前:
名無し三等兵[sage]投稿日:04/01/06 21:45 ID:???
訓練でいじめにあった覚えはないといってました。かなり要領がいいほうなんで
うまく逃れてただけかもしれませんが。
大陸での食生活は素晴らしく、日本にいるよりよほどいいもんが食えたといってました。
あるとき馬の乳と小麦粉で卵でパンケーキ?のようなものをつくり、一人で何個食えるか
競争したそうです。祖父さんは10個ぐらいでダウンしたんですが、最高記録を出した
人はその倍は軽く食べたらしい。中国人も飛び入りで参加してきたといってました。
その夜は大宴会だったそうです。
それで、終戦になってさっさと帰国。中国人からのおみやげとか袋に詰め込んで
帰還です。てっきり骨と皮だけになってよれよれで帰ってくるかと思ってたのに、
体重が90キロ近くになって丸々と肥って帰ってきたので家族も驚いたらしい。
「俺は運がよかったんだなあ。」と話を聞いている間何度も何度も繰り返し
いってました。
なんだか面白い話じゃなくてごめん。せっかく聞いたんで無駄にしないように
書いときます。
155 名前:
名無し三等兵 [sage]投稿日:04/01/08
23:57 ID:???
おれの爺さんは刺青いれていたので兵隊にいかなくてすんだ。
徴兵検査ではしばかれたらしいけどw
157 名前:
名無し三等兵[sage]投稿日:04/01/09 00:21 ID:???
158 名前:
名無し三等兵[sage]投稿日:04/01/09 00:31 ID:???
刺青で兵隊には行かなかったが、闇市で三国人と戦った。
酔った時、三国人をやりあげた自慢話をよくしてた。
これも一種の戦争体験だよねw
166 名前:
名無し三等兵[sage]投稿日:04/01/09 17:29 ID:???
俺もじいちゃん、関東軍の軍曹だったんだけど、
よく、元反戦将校のふりして、周りの人をビビらせてるよ。
いわく、陸軍士官学校xx期の出で、ノモンハンでソ連と戦おうとした
辻政信に「日本軍の戦力では相手にならない」と諌めたとか
瀬島龍三があまりにも、どす黒い勤務振りだったので、説教してやった、とか。
特に、ソ連の満州侵攻後、じいちゃん率いる中隊が居留民保護のため、
ソ連の戦車部隊に待ち伏せ攻撃をして、どうにか逃げる時間を稼いだ、
という話をすると、じいちゃんの正体を知らない人は、騙されて
相当感動してしまう。
じいちゃん、頼むから元士官で、自分がいかリベラル派だったかってことを
公衆の場で吹聴するのはやめてくれよ。、
、
167 名前:
名無し三等兵[sage]投稿日:04/01/09 18:16 ID:???
それは色々な意味で。゚(ノд`)゚。ですね。
171
名前:
名無し三等兵[sage]投稿日:04/01/09 23:02 ID:???
じいちゃんと風呂入った時背中にでかい傷があった。
聞いたら弾の傷だそうな。
いつも優しくてひょうきんな物知りじいちゃん、
ってイメージしかなかったから、何て言えばいいか分からなかった…。
うちの男は皆背中に傷があるな。じいちゃんそうだし、
親父も俺もある。何かあるのかな…?
179 名前:
名無し三等兵[pax
japonica]投稿日:04/01/10 15:14 ID:???
良く行く骨董屋の雑談で小耳に挟んだ話ですが。
何の先生だったか忘れましたが、
中国戦線で5、6人で集落を出た時に、バッタリ中国兵に会って、戦闘状態になってしまった時に
中国兵が青龍刀(と言っていた)を抜いたのを見て、とっさに軍刀を抜いて一騎討ちをしたそうです。
対峙しながら鉄砲を抜けば良かったなと後悔しつつ、味方の状態を確認すると、
同僚の日本兵は先生を助けないで、みんなで一騎討ちを見ていたそうです。
そんな話とか、煙はいぶすと虫除けになることから、煙草を吸うと肺病にならないとされて、
1日2本を健康のため吸わされたとかいってました。
180 名前:
名無し三等兵[sage]投稿日:04/01/10 15:16 ID:???
>>179
結果どーなったの?勝ったとか引き分けとか…
181 名前:
名無し三等兵[sage]投稿日:04/01/10 15:35 ID:???
185 名前:
179[pax japonica]投稿日:04/01/10 19:50 ID:???
話はそこまででした。決着とかは聞きませんでしたけど、
そう言う話をするとその先生、静かに泣くんですよ。
何か強い想い出があるんじゃないかなぁ。
213 名前:
名無し三等兵[]投稿日:04/01/12 01:51 ID:8gNOqkyk
とりあえず爺さんから満州で捕まり、シベリア送りになった話を聞いてきた
収容所で大工の経験があると巧く誤魔化し単純作業から逃げたらしい
そこで収容されていたのは日本人だけでなくドイツ人、朝鮮人、中国人やその他ヨーロッパの人間
そこでドイツ人と仲良くなり大工仕事を教えてくれたそうだ。人格もよかったのだろう、話ぶりからも
爺ちゃんが尊敬してたようだ
木を使って箱などを作らされていたそうなのだが、寒いため木が乾燥しすぎて
非常に脆くすぐに壊れると笑ってた。
ともに暮らしていると国ごとの人間の特徴がよく見えてくるようで朝鮮人、中国人は特に
看守にへつらう態度とそれ以外の高圧的な態度にひどく軽蔑されていたらしい
あとはタバコが吸いたくて我慢ができないときは松の木片に火をつけて気分だけ味わったり
した話や、食料を懐にいれてよく盗んでいたことを聞かされた。
食料を盗んだことでひどい目に遭うのじゃないかと聞くと、露助の役人は(女性だったらしい)は
自分の管轄以外は絶対に手をださないそうで、目の前で見られても咎められなかったそうです
地味な話ばかりでごめん、また戦地の話とか聞いてきます
214 名前:
名無し三等兵[sage]投稿日:04/01/12 02:12 ID:???
俺の親父は満州で消防の時に終戦になったんだが
進駐してきたソ連戦車兵によくしてもらった。
食料を盗みにソ連兵舎に忍び込んだ時に捕まったんだけど
戦車に乗せてもらったり食料もらったりしたそうな
引き揚げる前日会いに行ったら戦車兵は泣いたらしい
215 名前:
名無し三等兵[sage]投稿日:04/01/12 02:13 ID:???
爺さんから聞いた話だが、重爆の操縦桿はかなり重かったらしい。
自分は操縦桿が引けなかったので、機銃手だったと言ってた。
敵機に追われ、機銃を撃とうにも機体が激しく動くので
なかなか撃てない ようやく撃ってもあさっての方向ばかりだ
と言ってた。
224
名前:
名無し三等兵[sage]投稿日:04/01/12 13:53 ID:???
爺さんの同じ学校を出た人でベララベラ島で戦われた方がいました。
終戦後もその島にまだ潜伏している戦友がいるとかで毎年夏には島
に行って、手紙を砂浜に置いていったそうです。
次の日行くと、石を並べて返事が書いてあるんだって。それなら出て
来てくれてもいいと思うんだけど、恥だと思うのと敵の誘いじゃないか
と疑って出てこないらしい。 その方は結局数年前位に亡くなられました
が、島にはその人まだいてるのかなぁ。
226 名前:
名無し三等兵[age]投稿日:04/01/12
16:51 ID:???
前スレか前々スレあたりにも書いたが
俺の爺ちゃんは関東軍の獣医少尉だった
が、ソ連軍と交戦が始まると指揮官不足から歩兵部隊の指揮を命じられ、
戦闘中に手榴弾の破片で脚を負傷した
終戦で投降した際に所持金と腕時計 それに家宝の刀も没収されてしまった
収容所では他の将校と違って獣医であるため待遇が随分良く、軍馬の診療や世話を命じらたりした
意外だったのが、近所のロシアの子供たちが収容所までパンを貰いに来たこと
食糧事情が悪かったのかどうか知らないが、格別扱いが良かった爺ちゃんはパンを与えて喜ばれたとか
悲惨だったのは別れて別路引き上げようとした家族
別れた後の消息は一切不明 途中で死亡したという
爺ちゃんは妻と子供三人が引き揚げの途上に全滅したのを帰国してから知ったという
戦後に再婚して今の俺があるわけだが、爺ちゃんの苦労を思うと思わず胸が熱くなる
227 名前:
名無し三等兵[sage]投稿日:04/01/12
18:50 ID:???
>>226
……現実の前には、沈黙して聞くしかないわな…合掌
239 名前:
名無し三等兵[sage]投稿日:04/01/13 22:19 ID:???
祖父と祖母は満州から引き上げ。親戚の叔母も一緒。
叔母は坊主頭にして電車のドアの近くで片膝立てて
ロシア兵に襲われても、いつでも逃げれるようにしてた。
母は昭和20年に満州で生まれた。小学生の伯父(母の兄)は
私の母を背負って逃げたらしい。
電車は途中何度も線路を爆破され、工事作業用のトロッコに乗り換えたりして
振り落とされそうになりながら、どこかの港(不明)についたとの事。
>226氏のご家族のような話は沢山伯父から聞きました。
うちは運が良かったんだと思います。
長々とすいません。
230 名前:
じいちゃん大好き[sage]投稿日:04/01/13 05:12 ID:???
うちのじいちゃんは陸軍で、経歴は、
・満州で国境警備など三年。いつ頃かはわからないけど、階級章が肩についてたころ。
・内地に帰還、徴兵されるまで実家で過ごす。
このあとの順番は忘れた。
・鹿児島に掩蔽壕作りに。
・農学校?の先生
・都城飛行場で飛行機の偽装など
ほかにもあったような気がしますが?
またの機会に・・・
232 名前:
じいちゃん大好き[sage]投稿日:04/01/13 14:28 ID:???
詳しい経歴聞きました
・昭和13年 に兵役で入隊ソ満国境警備
・昭和15年 内地に帰還実家で過ごす
・昭和17年 赤紙で召集、福岡城跡地の基地で少年兵教育
・昭和19年 鹿児島で陣地構築
・昭和20年 都城飛行場に配属。 ここの飛行場で終戦を迎える。
ソ満国にいたとき、熊が出たというので二個中隊をだして
熊狩りに出たが、結局捕まえれなかったそうです。
240
名前:
名無し三等兵[sage]投稿日:04/01/13 22:28 ID:???
爺ちゃんはの実家は当時地元じゃかなりブイブイ言わせた材木問屋で、
1キロくらい先の駅(今じゃ新幹線の駅がある)まで全部自分ちの土地だったらしい。
爺ちゃん自身もかなり優秀だったので陸軍の近衛兵なんぞをやったこともあった。
戦争が始まった時、再召集されることを恐れた爺ちゃんは、
帝大の学生になって終戦を待つことにした。
しかし学徒出陣で計画はアボーン。今度は海軍の一水兵として再召集。南方へ。
そして終戦。爺ちゃんは中々復員してこなかった。
爺ちゃんのいた基地は米軍の空襲を受けて全滅とされていた為、迎えの船が
来るのが遅れたのだ。
半狂乱なのは自慢の末息子の行方がわからない実家の人達。
そこへ甘い言葉が……。
「おたくの息子返してあげるから、駅前の土地を全部差し出しなさい。」
天理様の手先だった。
実家の人達は藁にもすがる気持ちで土地を差し出した。
そして爺ちゃんは帰ってきた。土地は勿論戻ってこなかった。
それから天理様に帰依したかというとそうでもなく、俺が10の時に出した
爺ちゃんの葬式は浄土真宗だったりする。(w
241 名前:
名無し三等兵[]投稿日:04/01/13 23:38 ID:siy2GyEk
祖父は都内(東京市内)美大在学中に、21歳のとき学徒兵で満州へ
終戦前にとある飛行場大隊の小隊長、少尉任官
ろ助が侵入した時、逃げようとした大隊長に嫌気がさした
ものの幸いに師団ごと降伏したので命は助かる。
終戦前、同郷で隣の部隊にいた電信兵(通信兵?)が訪ねてきた際に
「オレの部隊ではとんでもないことが行われている、生きた捕虜にチフスを注射
しているんだ、このことは絶対他には言うな」といわれたそうな
これってひょっとして731のこと?
シベリアではノルマで戦友がばたばたと死んでいったそうです。
日本から赤十字?を通じて食料なんかが送られてきたときは
ほんとうにうれしかったそうです。
鰯の缶詰が届いたときに仲間と「イワ缶だ〜〜イワ缶万歳!!」
と収容所の中で踊っていたら、ろ助の警備兵に「イワカンを喰うとは野蛮人め」と
言われたそうです。後で聞いたらイワカンとはロシア語でイヌのことだそうです。
祖父は収容所生活のなかで赤化され、帰国し長年にわたり一族郎党を困らせましたが、
自分は学業を中断してまで従軍経験のあるこの祖父を誇りに思っています。
284
名前:
名無し三等兵[sage]投稿日:04/01/17 01:01 ID:???
戦争体験つうか
母方のじいさん(母の父)は
公務員(水道局勤務)で
徴兵逃れしたずるい人です
東京大空襲の日には埼玉にいて
「今夜は東京があかるい」とか
のんきなことほざいてたとか
そのときあんたの妻(おばあちゃん)と娘(母)は
死にかけてたんじゃア( ゚Д゚)ゴルァ!!
285 名前:
名無し三等兵[]投稿日:04/01/17
01:44 ID:MccxMhji
父方祖父支那事変に従軍。終戦時はトシくってたから内地勤務。軍馬の世話などしていた
らしい。母方祖父、そのツマであるばーちゃんいわく「おじいちゃんみたいな、へっぽこ。
あの人甲種合格じゃないよー!そんなのまで借り出されるんだからもうだめだと思った」と。
外地にとばされることはなく北海道で終戦。口の悪いばーちゃんの弟2人は戦死したそうです。
286 名前:
名無し三等兵[age]投稿日:04/01/17
05:12 ID:???
母方の祖父は、軍?に鉄道関係の部品を卸す工場を経営していたらしい。
同年代の父方の祖父が徴兵されたのに、その仕事の性質上(&コネ?)、
民間人として都内山の手で暮らしていました。東京大空襲では、下町の空が
赤く見えたそうです。どうなったんだろうと、その翌日、下町にある事務所に
向かうと、一番被害の大きかった橋の近くの道路両端は死体が山積みされていました。
事務所の中の大きな金庫は焼け残っていましたが、まだ熱を持っていて、
運び出せなかったそうです。
それから2ヶ月後、山の手の自宅もショウイ弾にやられ、キツキツ熱々の防空壕で
死にそうになり、テキパキ材木の商いや製材をはじめてご近所さんの家を建て。
こういう人でも戦後はハワイに観光に行ったりしちゃうんだから、考えたら
凄いですね。
287 名前:
名無し三等兵[age]投稿日:04/01/17
05:34 ID:???
父方の祖父は、大学卒業後、親の商売を手伝っていましたが、徴兵され、
一応従軍しました。長男&コネのおかげで、内地の疎開地において、
楽しい新婚生活&兵隊ごっこをおくりました。学士入隊だったからか、
すぐに部下が何人かつき、元々おぼっちゃん育ちなので、皆で和気合い合いと
過ごしていたそうです。部下の方達にもこんな楽な上官はいないと好評。
たまに、自分が上官に殴られることがあっても、上には逆らわず、けろっとして
いたのも性格なんでしょう。
戦争は負けるに決まっていると思っていたので、早く終わらないかなぁと
のんびりかまえて敗戦。すぐに第一子誕生。食糧事情のいい田舎でのんびり子育て。
祖父は現在も自動車免許を持っていないのですが、戦争中は部下に免許を発行する
監督だったんだというのが唯一の自慢話。
幸運な人だと思います。
288 名前:
名無し三等兵[]投稿日:04/01/17 07:09 ID:WFu8ZmCe
俺の祖父ちゃんは学徒出陣の一人です。マジで
友人を2人亡くしたそうです。生き延びた自分を憾んでるみたいで・・・
そのへんの気持ちが俺には理解できません。これが大和精神なのかね〜
289 名前:
名無し三等兵[]投稿日:04/01/17 08:32 ID:I8kNlCBH
うちの祖父は、陸軍伍長で機関銃手やってました。確か重慶に行ったとか。
幼いころに話を沢山聞かされましたよ。輸送の時の車や飛行機はドイツ製だったとか、みんな死ぬときは『天皇陛下万歳!』って言って無かったとか。
中国の方が見たら怒ると思いますが、疲れて動けない中国人を蹴ったとか・・etc
志願した時の身体検査がトップだったと自慢しておりました。今でもその紙は祖父の宝物です。
復員してからは、家族の為に働きすぎて腰の骨と首の骨を入れ換えるという大手術をしまいた。しかし、今では体力も衰え頭も弱くなってきました・・・。
最も尊敬する人だから長生きして欲しいです。
291 名前:
名無し三等兵[]投稿日:04/01/17 10:22 ID:/5ILCDBG
もう20年も前に死にましたが…
シベリア抑留兵。収容所でのキッツイ赤化教育の話をしてました。
頭のよい人は「私は共産主義者で〜す」とか言って早々に帰ってきたが
ウチのじいちゃんは頑なにそれを拒否。常人の3倍は教育されたらしく
そこらのアカより立派な知識を持つに至りましたとさ。
あと、友人のじいちゃんは特務(東南アジアで活動)。戦後の戸籍復旧が
大仕事だったそうです。
294 名前:
名無し三等兵 [sage]投稿日:04/01/17 16:58 ID:???
ウチの爺さんは上海で酔ったイギリス兵に絡まれと喧嘩になり半殺しにしたそうでつ。(軍艦相撲では大関)
国際問題になるのではとビクビクしながら帰り上官に事の顛末を伝えると上官は「勝ったのか?負けたのか?」
と聞かれ「勝ちましたと」というと「勝ったなら問題は無い!」と言われたそうでつ。 そのエピソードを父から聞いた
んですが、祖父から直接聞く機会が無く、祖父は他界。残念の極みです。 その後、海軍を除隊後に警官として腕を振るったそうです。
295 名前:
名無し三等兵[sage]投稿日:04/01/17 17:59 ID:???
うちの父親のほうの爺さんは陸軍の中尉だったんだけど、
輸送艦に乗っていた時に二回も敵の潜水艦の魚雷で船を沈められたらしい。
その時、輸送艦に搭載してあった戦車を甲板にあげて、
潜水艦がきた時には砲撃で対抗しようとしていたらしく、
その話を聞いたときは旧軍の装備の足りなさに驚いた。
最近少し体調が悪いようだけど、長生きしてほしいと思う。
303 名前:
850[]投稿日:04/01/18 01:04 ID:lz6BJem5
俺の爺チャンは少年飛行兵で知覧の部隊にいた、と言っていた。
なんか松根油とかいうシロモノで飛行機で空を飛んだらしい。
爺チャン曰く「良い燃料だったよ。絞るの大変だったけど」との事。
ちなみに爺チャンは田舎の大地主の息子で飛行場の脇でカボチャとか
サツマイモとかを栽培。戦後の農地改革で畑と田んぼの多くを失った。
GHQの外人に倉にあった刀20本位分捕られ、浮世絵も同じ運命を・・・・
って話がズレとるがな!!
310 名前:
名無し三等兵[sage]投稿日:04/01/18
19:00 ID:???
陸軍
夜戦は本当に怖かったらしい。
真っ暗で見えないから、軍刀をめちゃくちゃに振り回したって言ってました。
敵味方区別が付かなくて、部下に嫌われていると、どさくさにまぎれて切られてしまう人もいたようです。
自分の祖父は中隊長だったみたいです。
311 名前:
名無し三等兵[sage]投稿日:04/01/19 10:57 ID:???
うわなんだ貴様、やめr
で逝かれた上官も少なからず居るのね
312 名前:
名無し三等兵[sage]投稿日:04/01/19
16:09 ID:???
いるけど、310の様な話は当時から流れていて、
部下からの制裁が怖くて無茶なことは
出来ないようになっていたって聞きました。
313 名前:
名無し三等兵[sage]投稿日:04/01/19 18:08 ID:???
うちのじいさん(故人・元上等兵)曰く、
内地・・・戦場じゃないから、後ろから弾が飛んでくる可能性が無い。
よって上官のいじめや体罰が多い。
外地・・・味方から撃たれる可能性もあり、上官も理屈の通らない
体罰はしない。 比較的部隊内はマターリ
(もちろん戦闘はマターリではないと思うが)
だそうだ。
ちなみに外地は中国に2回、その後内地で広島に7月末までいて、
福岡で終戦らしい。
8月も広島だったら漏れはいなかったかも・・・
当時の夢をよく見ては、夜中に叫んだりもがいたりしていました。
316
名前:
名無し三等兵[sage]投稿日:04/01/19 23:07 ID:???
>>313
戦友会などで上官を招待しても、当時拳骨を振るっていた
上官にしてみればリンチされるんじゃないかと恐れて
出てこない人もいるみたいですね。
321 名前:
名無し三等兵[age]投稿日:04/01/20 23:47 ID:???
正月に帰省した時、おじさん(父の長兄、大正15年生まれ)に話を聞いてきました。
おじは海軍の戦闘機乗り。「本土防空で数回、迎撃に上がった事が有るが、会敵した
のは2回。一度目は、敵の護衛戦闘機を見たら、頭が真っ白になりとりあえず、
追っかけて行き、撃った。今考えると、とんでもなく遠かったんだろうな。初めて
敵を見たから、興奮して弾を全部撃ってしまった。気が付くと自分ひとり。帰ったら
立てなくなるほど殴られた。2回目は小隊長が接敵に失敗して、上がったらもう敵は
飛んでいった後だった」そうです。その後、おじは特攻隊になったけど、出撃前に
終戦となり生き残ったそうです。
354 名前:
327[sage]投稿日:04/01/26
12:27 ID:???
少飛の入学試験には身体検査があったのですが、その中に性病検査も
あったそうです。検査のやり方は、
裸で軍医殿の前に起立。
軍医殿がおもむろにチンコを握る。
皮が剥けた状態にして診る。
だいたいこんな感じでした。
インキンを患い医務室に行ったところ筆みたいな物で赤チンキを
べっとり患部に塗られたそうです。飛び上るほどの衝撃でいっとき
ズボンがはけず、団扇で扇いでいたとのこと。しかし、効果は
抜群で二、三日で綺麗に直ったそうです。
インキンには赤チンキが一番だと、親父が言っておりました。
下の話でスマンデス。
359 名前:
327[sage]投稿日:04/01/27
12:43 ID:???
他の生徒が九五中練「赤とんぼ」で訓練を受けているのを地上から眺めている時の話。
着陸態勢に入った時、突然エンジン音が消えた。みんなが「あっ!」と思った瞬間、
急降下に入り地上スレスレで機体を起こし無事着陸したそうです。
(後でその生徒に聞いたところエンジントラブルの後、教官がすぐ操縦を変わったとのこと)
複葉機はグライダーなみに安定性がよかったと言っていました。
しかし、いつもそんなにうまくいくとは限らず、訓練中墜落して教官もろ共
死亡するような事故もあったそうです。
付き合わされる教官はかわいそうだったと言っていました。
364 名前:
名無し三等兵[sage]投稿日:04/01/28 17:04 ID:???
漏れのじいちゃんは陸軍航空隊の通信部隊に配属されていたそうだ。
いろいろ話はあるんだが…終戦時に宇都宮に所属部隊は駐屯して
いたのだが…2,3日前にはすでに終戦を通信部隊の皆は知っていたらしい…
なおじいちゃんのいとこは陸軍中野学校の出身で中国南方で8年間ずっと任務を
終戦まで遂行していたらしい…
両者ともなかなか口を開いてくれん…もっと語ってほしいのだがなあ…
367
名前:
名無し三等兵[sage]投稿日:04/01/28 20:03 ID:???
曽祖父は、ぢが検査でひっかっかって乗る予定の艦に乗艦しなかったら
その艦が撃沈されて全滅。
祖父は大陸でのどかに史跡のスケッチをしてるうちに小競り合いで左腕に負傷。
その為本土に戻ってる間に戦争終了。
どちらもかなりの強運の持ち主の様です。
ちなみにどちらか片方が戦死していれば私は生まれていませんでした。
祖父のアトリエを亡くなった後に整理してたら、きちんと保管された赤紙や
大陸での出来事を詳細に記録したスケッチブックが出てきました。
上陸日や移動経路、中国人商人との交渉、慰問の内容等色々書いてあり、
それに画家志望だった祖父の達者なスケッチが加わって良い資料になってました。
祖父は私が小学生の自分に亡くなりましたが、もし存命していれば色々話しが
聞けただろうな、と思うと残念です。
382 名前:
名無し三等兵[sage]投稿日:04/01/30
01:25 ID:???
祖父ではないですが、父は大戦中、10代で志願して海軍にいました。
訓練中に終戦を迎えましたが、いまだに家族が閉口するくらい几帳面、
たたんだ布団の四つ端がそろっていないと気に入らないし
洗濯物もものすごく丁寧に、むちゃくちゃキレイにたたみます(父は洗濯好きです)。
古新聞紙も新刷のようにビッシリそろえて回収に出します。
母は原爆が投下された広島市からは数十キロ離れた田舎に住んでいましたが、
朝、空が明るくなるのを見たそうです。
その日の夕方に近所のおじさんが「今日は広島は大ごとだったらしいで」と話しに来て
もしかしたらあれだろうかと思ったそうです。
看護女学校に通っていた母は数日後、看護の手伝いで広島入り。惨状を目の当たりにしたそうです。
薬がいくらあっても足らず、たくさんの助かりそうな人が目の前で亡くなるのだそうです。
中でもガラス片が刺さった人が多かったとか。
「はだしのゲン」の映画を観て、「こんなだった?」と聞くと
「こんなもんじゃない…」と重い声で言っていました。
ほんの10年くらい前に同窓会で、8/15から何日間の間(忘れました)に
広島市に立ち入っているので被爆手帳(医療費がタダになります)を持っていると旧友から聞き、
うわしもうた損しとった!とあわてて申請しました。
証人に先の旧友を立て、自身も当日のことをできる限り思い出して話さなくてはいけないので、
かなり鬱になって帰ってきました。
戦争体験ぽくなくて申し訳ないです。
391 名前:
名無し三等兵[sage]投稿日:04/01/30 16:38 ID:???
うちのじいさんは鹿児島の工場(戦闘機のネジとか作ってるとこ)に勤めていて
その時に空襲でP-38とかが機銃掃射するとこ防空壕から顔出して見てたらしい
その時に爆弾が落ちてくる(風を切り裂くような音)がかなり怖かったとか
その後19歳で入隊していて機関銃班に所属してたらしいが銃は一度も撃ったことが
ないとか。 あと「うんりゅう」って飛行機知りませんか? 試験飛行中に
急降下してそのまま落ちたとか言ってたので
405 名前:
327[sage]投稿日:04/02/02
17:23 ID:???
終戦後すぐ、戦友と二人で佐賀の飛行場へ向かって歩いていると
後ろから小学校低学年くらいの坊主が石を投げてきたそうです。
親父or戦友「なんばしよっとか!」
坊主 「兵隊さん達のせいで戦争に負けたとやろが。
何で生きて帰ってきた!おい(俺)のとうちゃんは
戦死したっぞ!」
親父&戦友「・・・・・」
終戦の時はたいした感情もなかったそうですが、この時初めて
敗戦のみじめさを感じたと言っていました。
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