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昭和の香り

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引用元:軍事板「あなたのおじい様の戦争体験をおしえて その2」
http://hobby3.2ch.net/test/read.cgi/army/1061964556/

166 名前:名無し三等兵[]投稿日:03/10/04 21:19 ID:LkTVRYIj
うちのじいちゃんは
戦争中のことしゃべらなかった。
一度聞いてみたんだけど

「うん、戦争はやるもんじゃないよ」

としか言わなかった。
結局話さないまま亡くなりました。

31 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/08/31 12:01 ID:???
じいちゃんの話は以前書いたのですが、義父からも話が聞けたので出します。

義父は戦時中、調布に住んでいました。調布といえば244戦隊。
近所に住んでいたこともあり、迎撃に上がって行くのをよく見てたそうなんですが、
「足が浮いて、上昇したなと思ったらそのまま落ちてくる事がよくあった」
飛燕の稼働率が低いのは知っていましたが、稼動中の故障とは…

義父は当時、小学生でしたがF6FやP51によく追っかけられたそうです。
本当に動くものなら見境無くで、同級生も校庭で撃たれて死んだのが何人も。
こういう話を聞くと、直接目視でやってるぶん無差別爆撃以上に腹がたちます。

212 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/10/13 05:54 ID:???
俺の叔父さんの昭和20年春頃の話です。当時中学一年だった叔父は級友二人と、
「このままでは日本は負ける 何とかしよう」と相談し、当時富士山麓にあったという
「陸軍少年戦車学校」への入学を決意し、担任の先生に願書を取り寄せてくれと
3人で頼みに行ったそうだ。ところが先生はいきなり3人を殴りとばしてこう叫んだ

「貴様等が死んで日本が勝てると思うのかっ!! これからの日本には貴様等の
力が必要なんだっ!!」

戦後叔父は高校の教師となり、そして日○組とも深く関わっていたらしい。ただ、
叔父は酔った時は何故か「加藤隼戦闘機隊」や「愛馬行進曲」を歌っていた。

昨年叔父は鬼籍に入りました。

20 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/08/29 23:55 ID:???
俺のじいさん、ハルピンで満鉄の総務かなんかやってた。
引き上げの時貯めたお金日本に送ったけど
帰ったら1円も日本に着いて無かったんだって。
カミさんのおじいさんは海軍で宮古島に終戦間際にいたみたい。
部隊とか何やってたとか全然わかんないけど。

28 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/08/30 22:20 ID:???
>>20
財産持ち出し制限があったから、
おじいさんは何がしかの不正規送金をしようとしたのでしょうね。
更に戦後に日本はデフォルトを宣言していますから。
それでウチの祖父母も一文無しになりましたよ。
ばあちゃんいわく、「日本はまだ平気だと思っていた」と言う事です。
なまじ、平和だった満州では
日本が負けるなんて事は考えられなかったみたいですね。

30 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/08/31 01:56 ID:???
>>28
そうなんですか。全然知らなかった・・。
母親とその兄弟は一緒に逃げてきたから今度聞いてみます。

その時の聞いたエピソード。
逃げる時、当時6歳だったおじさんが落ちてたラッパを拾い
それを吹きながら歩いていたそうな。
するとどこからとも無く中国軍が集まってきて
それは中国軍のラッパだ!勝手に吹いて!お前ら全員殺すと
銃を突きつけられたそうな。
じいちゃんばあちゃんが土下座して謝っていたところ
引き上げを手伝ってくれた雇っていた中国人が
「この日本人は良い人だ。許してあげてくれ」
と、一緒になって土下座してくれて助かったらしい。
当時じいちゃんは関わった人(国籍問わず)に
常に親切にしてたみたいで、そのおかげみたいです。
色んな意見あると思うけど「五族共和」を心掛け、
実行していたしていたじいちゃんを俺はすごく尊敬しています。

長文スマソ

85 名前:名無し三等兵[]投稿日:03/09/16 09:19 ID:B88rRSi4
>>30
自分のじいさんは自分が大きくなる前に死んでしまったので、知り合いの
会社経営してた人の話なんだけど(今は故人)。
大陸から引き上げるときに、囲まれ、人民裁判みたいなのをやられたときに
「この人はいい人です。」と証言してくれる人が現れ、一命を取りとめ
帰国できたのとのこと。自分はとくに何か親切をした覚えはなかったが、
彼らから盗まず、馬鹿にせず、農業なんかを一緒にやっていたそうな。

111 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/09/18 08:22 ID:???
中国じゃなく韓国人だけど
満州だったかで、ロスケが攻めてきたとき
日ごろから親切にしていた韓国人の使用人が
自分の危険も省みず安全な地域まで送ってくれたらしい

義理人情はどこかの国の専売特許じゃないよね

112 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/09/18 10:31 ID:???
>>111
国じゃないよ、人間なんだよね。
国や人種で分けようとするから、話がおかしくなると。
自分がロシアに行った時はずいぶんと親切にしてもらったものです。
いや、これ、ジョン・レノンの受け売りなんですが、本当にそう思うよ。

32 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/09/02 01:09 ID:???
盆休みに親父の実家で聞いた話です。
 大叔父(祖父の末弟)は昭和19年に海軍通信学校(横須賀?)の豊川分校に
年齢をごまかして入ったそうです。
 学校は豊川稲荷のそばに在ったそうですが、数年前に行ってみたらその面影も
なかったそうです。

 教科は4ヶ月の速成教育。毎週試験結果が張り出され、上位50人に入らないと
放校になるので不安で仕方がなかったそうです(落ちれば普通に赤紙で召集でした
から)。幸い、38番で卒業できました。
 また、ケツバット等の私的制裁には無縁ではいられなかったそうで。

 卒業後は舞鶴に通信兵として勤務したそうです(舞鎮か?)。受信文が不完全で
穴だらけのものが多く、文脈から補ったものの、持っていった電文を「何だこの文は!」
と参謀殿に突き返された事があったそうです。
 また、防空壕の中の勤務で、中は真っ暗、一度中将殿(舞鎮の司令官か?)と
通路で鉢合わせして焦りまくったとのことです。
 
 終戦後、退職金(と大叔父は言った)をもらい、昭和20年10月にこれまでの
貯金(使う暇がなかったそうだ)とを合わせて400円を持って帰省したら、
親が腰を抜かしたそうです(当時、1俵19〜20円とのこと)。でも、戦後のインフレで
21年の1月には1俵200円にもなったため、慌てて使ってしまったそうです。


 伯父(父の長兄)は大叔父の1学年下で、昭和20年2月に入校したのですが、
卒業前に終戦になってしまい、退職金を37円しかもらえなかったとぼやいていました。

62 名前:名無し三等兵[]投稿日:03/09/11 21:55 ID:p+HweS+J
俺はじいさんが嫌いだった。軍人だったからだ。俺が大学の時死んじゃったけど。
しかし、2ちゃんのおかげで正しい歴史に目にし、激しい後悔が...
俺のじいさんは鹿児島で特攻隊を送り出した大佐だった。
もっと話を聞いておけばよかった。
高校の頃、俺によく言ってた言葉を今でも覚えてる。
「○○君。ワタシらは一生懸命だったんだ。一生懸命やりすぎた結果が
あんなことになってしまった。一生懸命になりすぎたらいかん...」
今は毎年霊前で後悔してる。

72 名前:名無し三等兵[]投稿日:03/09/15 23:28 ID:btYsY5YN
ばあさまはヒコーキを作っていたと言っている
ヒエンの排気管だったかな?プレスしたものを組み立てたのだけど
長さがぜんぜん合ってないので、無理やりハンマーでたたいたそうな
こんなんで空、飛んで良いんだろうか?と思ったとか
女学校の学徒動員だと思う

73 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/09/15 23:38 ID:???
>>72
う〜ん、作っている方も解っていたんだろうね。
じい様は支給されたゴボウ剣がヤスリがけの跡が付いていて、
「こんなものまで」とびっくりしたそうな。

89 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/09/16 14:57 ID:???
私の工業高校時代の教師は装甲巡洋艦「出雲」でフランスに船舶工学の勉強に行った。
そんで、溶接技術やら多連装砲塔の設計技術やら多層液層防御による水雷防御やらを
日本に持ち帰ったら、平賀派に護衛船部門に飛ばされたらしい。
「私達の持ち帰った技術で戦艦や空母を造っていたならば、史実ほど易々とは沈める事は
敵わなかったでしょう。古い頭をもつ技術屋の罪でしょう。」と、目頭を抑えて語って
おられた・・・

148 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/10/01 19:12 ID:???
うちの母方の爺様のお話です。
戦果公開のためか、新潟の市役所の前に撃墜した米軍機
(B29という話だが…)が展示してあったそうです。
ちょんどそん頃、家の鍋が壊れたしまった爺様。
東亞戦争真っ盛り、鉄物資なんか欠乏なんで新し
い鍋なんか手に入らず…そこで爺様考えた!!
夜こっそりと展示してある米軍機からちょっこり
と鉄を拝借。その機体からひっぺがした鉄板で新
しい鍋を作ったとさぁ   めでたし、めでたし

ちなみに
爺様の口癖は「イモ食って勝てるわけねーだろ」でしたW

153 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/10/02 00:22 ID:???
うちの父方の爺様、視力が悪くて徴兵されなかったらしい。
戦中戦後を通して近所から村八部にされ、家族揃って疎開も出来ず
(疎開しようにも近所の人がさせてくれなかったらしい)
空襲を経験して3人いた子供の内私の親父以外の2人が焼死。
その後も食事も生活品もろくに手に入らず家族でひもじい生活したらしい。
戦後に夜逃げ同然で引越しして今にいたる。

「私は戦場に行けず御国のために戦えなかった。
その事が悔しかったがそれ以上に周囲の仕打ちが悲しかった。
昨日まで仲の良かった周囲からされる仕打ちのなんと辛いことか。
私さえ御国のために戦えば・・・本当にすまなかった」と
5年前のお盆に泣きながら仏壇に向かって詫びていたのを覚えています。

コヴァの戦争論を読んだ爺様の感想は、
「靖国にいる親兄弟にさえ会いにいけない私をお前は恥じるかい?」でした。
曾爺様も爺様の兄弟も満州で死亡したらしいですが詳しい話は分かりません。
爺様は東京に行って昔の知り合いに会うのが怖くて靖国神社に行けず、
その事を心残りにしつつ3年前に没しました。

なんか暗い話でスマソ、こういう経験もあるよって事で。

161 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/10/03 18:17 ID:???
うちの爺様は大連にいたそうだけど、靴を取られまくって大変だったらしい。
今で言うチャリンコ泥棒ぐらいのダメージ?
実家の母親に靴が取られた、と何回も仕送りを頼むので
不審に思ったのか、いいかげんにしろー!という電報が届いたそうな……
博打でもしてるのでは……、と思われていたらしい。

あと、ひい爺さんは日露戦争に行って傷痍軍人になって帰ってきたらしい。
軍人恩給が結構な額だったので多分結構上のほうだったんだろうけど、
働かんでも食べていけたため、囲碁と将棋ばっかり打っていたので、
うちの家では囲碁と将棋は出来ません。
真面目に働かなくなるからだそうで……

なんか、うちの家系の戦争体験は緊張感があんまりないです……
田舎だったせいもあるからかなぁ?

170 名前:名無し三等兵[]投稿日:03/10/04 23:38 ID:EyMCE7yY
うちの爺さんは海軍の偵察機に乗ってたらしい。
本土で訓練中の墜落話、ニューギニアで巨大ミミズの調理、
戦地の病院での荒療治など色々聞かせてもらった。
墜落話はうろ覚え。ミミズはぶつ切りにして食ったってだけ。
つー事で戦地の病院話を。

手や足を切断する際、麻酔無し手術を恐れて暴れる兵がいた。
そんな場合は複数名で押えて頭部を鈍器でブッ叩き、意識朦朧としている
間に縛りつけて手術に取り掛かったそうだ。

どうも単純な話しか覚えてないので今度色々聞き直してみます。

185 名前:170[sage]投稿日:03/10/08 22:39 ID:???
色々聞いてみました。
うちの爺さんは福島県郡山で海軍に志願→百里ヶ原で訓練→台湾高雄
だそうです。
百里での訓練は霞ヶ浦に古い漁船を浮かべての雷撃訓練が主
だった(96艦爆?攻?)。
800キロ爆弾を落とすことを想定しての訓練だったようだ。
訓練中には2度墜落し、そのうち一度は己の整備不良によるもので、
同乗していた教官は顎の骨を折る重傷だった。
本土から台湾へは潜水艦による人員輸送、高雄に到着後は航空機が
届いておらず、やることが無かった。
しばらくして上海経由で零52型が8機届く。

続く

186 名前:170[sage]投稿日:03/10/08 22:51 ID:???
8機のゼロ52型が届き、まずは4名が沖縄方面に出撃。
返って来る者はなかった。
その後、フィリピン方面への偵察で爺さん他9名が出撃(ゼロではなく
3人乗りの偵察機)。フィリピンのどこかは聞いてないけど、敵の大編隊に
見付かり追いかけられるが、※入道雲へ飛び込み難を逃れた。
※ 航空機にとって入道雲を避けるべきものだったらしく、機体は激しく
きしんだ。

難を逃れたものの敵機の攻撃による損傷から台湾への帰還は不可能となる。
何とか海上に着水し、無線機だけを持ってボート(救助用)に乗り
漂流する。無線により要請した救助で高雄へ戻る。
出撃した他の2機の内、一機は無事帰還、一機は行方不明であった。

続く

187 名前:170[]投稿日:03/10/08 23:03 ID:GWX8wlwj
高雄に帰還後しおばらくして基地が艦砲射撃に遭い、まともな航空機が
無くなる。上官は残ったボロ飛行機での出撃を考えたようだが、隊員の中
では「あんな機には乗れない」と言う不満で満ちていた。
結局そのボロ飛行機すら修理し、飛行可能な状態に出来ず終戦を迎える。
終戦後、上官(少将らしいが名は不明)が簡単な舞台を築かせ割腹自決。
中尉(こちらも名は不明)が介錯した。また、中尉は介錯した刀で自決。
他6〜7名の上官も皆の前で若人達を死なせてしまった事に謝罪の言葉を
述べてから自決した。
武装解除後はこれと言ってすることは無く、ワニの皮で作ったボールと
パラシュートの素材で作ったグローブを用いてひたすら野球ばかり
やっていた。

聞いたのはここまで。ノートにまとめながら聞いてたけど、ラストの
上官自決の話では非常に湿っぽいムードになった。俺も爺さんも。

172 名前:名無し三等兵[]投稿日:03/10/05 00:57 ID:cEVbHhXu
祖父じゃなくて、近所の人だが…。
駆逐艦に乗っていて、沈む敵艦から次々に
海に飛び込んだ米兵をおもいきり機銃掃射。ほんとの血の海に。
帰還の途中で、次の戦場に急行することになった。
邪魔になるということで、深夜、捕虜をひとりずつハンマーで殴って水葬。
翌朝、血と脳漿まみれの甲板掃除。
ちなみに、大和沈没の時、かなり近くにいたらしい。

174 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/10/05 02:56 ID:???
 高校の非常勤講師の先生の話。私立だったから定年にとらわれずいらっしゃった。貴重な話を聞かせて頂きました。
先生は専門学校(旧制)だか、師範学校だかの時に学徒出陣で、陸軍航空兵に。
操縦ではなく偵察で、しかも特攻要員だったから、九九軍偵とか九九軽爆とかに乗っていたかもしれない。
花巻の陸軍航空隊(現花巻空港?)にいて、飛行訓練に明け暮れたらしいが、昭和20年は冷夏で東北地方は度々やませに見舞われたとか。やませが吹くと飛行作業が中止になるから、皆喜んだといっていました。

175 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/10/05 03:03 ID:???
2年に満たない間ですが、過去に軍に籍を置かれたとは思えない、丁寧な口調の先生で
「私の仲良かった友達はほとんど戦死してしまい、残ったのは私ともう一人だけです。あなた方にはそんな思いはさせたくありません。」
と、授業の合間に語られた時は万感胸に迫りました。
日教組が物言うよりも、何万倍も重みがある言葉でした。

176 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/10/05 05:41 ID:???
夜、池のほとりで野営をして、その池の水で飯を炊いた。
その飯は塩味がきいていて美味しかったそうだ。

朝になって、池は戦死した兵士がいっぱい浮いていて血の池状態。

飯が塩味だった理由が…。

214 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/10/13 10:49 ID:???
うちの爺さんはもう20年位前に死んじゃったんだけど
戦艦榛名の機関兵として乗艦してた。
最後の呉空襲の時に爺さんも榛名で死のうと思ったらし
いが当時の艦長に「貴様らは乗らんでいい」と強く言わ
れ乗艦出来なかったみたい。
終戦後鉄くずと化した榛名をみながら涙の杯を交わして
生き残った方々は全国に散っていったらしいよ。

その話しの時爺さんの目は真っ赤だったのがすごく印象
に残っているな・・今も生きていれば色々聞けたんだけ
どね。

232 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/10/18 22:00 ID:???
うちの爺さんは軍人じゃないんだがもと満鉄の社員で満州にいた。露助の満州進行時はあんま聞かなかったけど大変だったらしい。
戦争が終わり、日本に帰って来れたのは奇跡だって言ってたな。
あと、橋本元首相から賞状を貰ってた。内容は満州から生きて帰ってきておめでとう・・・・だった。
ちなみにその時の爺さんの感想、売国奴から賞状貰っても嬉しくも何ともないだった。

278 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/10/24 02:29 ID:???
>>232
うちのじいさんはその賞状を泣きながら焼いてたよ・・・・

実家ではじいさんが生きてる限りシベリアの話は禁句

244 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/10/21 20:40 ID:???
父方の祖父は工兵(架橋)、昭和20年にビルマで戦死。
元々所属していた部隊から他隊に移り、その配属先部隊がビルマ中部エナンジョンで全滅したので、そこで戦死したという事になっている。そんなわけで死亡時の状況はよく分かっていない。元々の部隊からは生還者もいるので、運が悪かったのだなあと…。
戦地からの手紙と、転属時に原隊の係りの人に預けていった郵便貯金の通帳が、実家に残されている。

母方の祖父は歩兵(擲弾筒)、中国大陸に5年間。こちらは今も元気。
辛い話も笑い話も色々聞いていて書き切れないけれども、印象に残っているのは
「男は修行のために一回は兵隊に行った方がいいという人もいる。それはまあそうかも知れないが、二度と行くところじゃない」
と言う一言。

248 名前:名無し三等兵[]投稿日:03/10/22 04:38 ID:r/9/QdGE
ペンキ屋だったので、飛行機の塗装をする仕事をしていたのだが、
酒が入ると真珠湾を攻撃したことになってしまいます

252 名前:名無し三等兵[]投稿日:03/10/22 19:24 ID:rcitft0B
うちの祖父は陸軍第三十三師団。歩兵第二百十三聯隊でした。
インパール作戦に参加して、生還しましたが、家の方には戦死の知らせが来て、葬儀まで行われたそうです。
葬儀までしたものだから、祖父が帰還した時は皆、驚いたそうです。
インパール作戦では食糧に困り、毛虫なども食べたそうです。

253 名前:名無し三等兵[]投稿日:03/10/22 19:34 ID:nuL/M9og
↑こんな話けっこうあるみたい。うちの近所でも3度戦死の知らせが来て遺骨が届いて葬式をやって、4度目に本人が生きて帰ってきたらしい。

351 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/11/08 17:43 ID:???
家の爺ちゃんは、大戦中、飛行艇(何かは不明)に乗ってたそうだ。
それで、偵察任務に当たっていたところ、敵戦闘機と遭遇、爺ちゃんは射手だったそうだが、
奮戦むなしく撃墜。これで、10人中6人が戦死、
爺ちゃんたち4人は、ゴムボートで1週間ほど漂流。
無人島に流れ着いたそうだ。そこで終戦までを過ごす。
そして帰ってきたら、家族が驚いたそうだ。
理由を聞くと、
「既に国から死亡通知が来ており、葬式を済まして、墓まで建てていた。」
と言われ、開いた口が塞がらなかったそうだ。

254 名前:名無し三等兵[]投稿日:03/10/22 19:36 ID:1i/YG0sd
とりあえず、地元の小学校の上空を
近所出身のパイロットが乗った戦闘機が超低空で
何回か周回し、出撃して行ったと聞いた。
そのパイロットは特攻隊員だった為、その後戻ってくることは無かった。

261 名前:名無し三等兵[]投稿日:03/10/22 22:55 ID:k1atBt+G
お調子者の叔母は戦時中、陸軍の女子通信員に応募した。
まだ16歳だったので合格するはずなかったのだが、地元新聞に愛国少女とか書きたてられてしまい、軍も無視できず採用されてしまった。
大陸の軍司令部に勤務したのだが、なにせ子供なので司令部のマスコットみたいなもんだったらしく仕事は楽だったらしい。
ある少尉と親しくなって結婚するつもりだったが、終戦直後の武器廃棄の際に同僚の誤射で少尉は死んじゃったとか。

267 名前:名無し三等兵[a]投稿日:03/10/23 14:30 ID:???
母方の祖父
本土で高射砲部隊の指揮を執っていたらしいが、実は弾薬が無くて空砲撃ってた。もう亡くなりました。
父方の祖父
満州行って戦った。馬はとても大事で死んでも守れと言われたそうな。それで、冬は民家からいろいろ盗んで、牛も盗んで暮らした。
そのうち敗戦。そのあとはカエル、蛇、その辺の草食べて何とか生き残ったそうな。もう亡くなりました。

268 名前:名無し三等兵[]投稿日:03/10/23 15:07 ID:OFmGXN5v
祖父は爆撃機の通信担当だと聞いた。高雄にいたらしい。
終戦が少し遅れていたら特攻隊になって死んでいたと言ってた。
戦後、公務員になり自己紹介では「私は人殺しです」
と言ってたらしい。それが己に対する皮肉なのか真意はわかりませんが。
二十数年前に懺悔の気持からか在家ながら坊主になり、毎朝読経してた祖父。
彼は私の誇りです。
四年前朝鮮の方向にはション便もしたくない、と言いながら鬼籍に入りました。
おわり

283 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/10/25 01:57 ID:???
戦闘には不馴れなのに、普段威張り散らしている若い小隊長がいて、
祖父の戦友が腹を立て、戦場で後ろから小隊長の頭上5メートルあたりを狙って三八銃を一発。
件の小隊長は頭を抱えて蹲り、一同は溜飲を下げたそうだ。

経験を積めば、音で弾丸の遠近や方向が分かるようになるから、
5メートル離れた弾なら音を聞いても大して怖くないし、
後ろ弾だと気付きもするらしい。

祖父「それが分からん間は、将校もあんまり威張っちゃいかん」
漏れ「で、その後ろ弾を撃った戦友というのは、実はお祖父さん?」
祖父「いやいや、とんでもないw」
漏れ「もう時効だし、正直にひとつ」
祖父「俺じゃないってww」

288 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/10/25 17:11 ID:???
うろ覚えなのでちょっと変かもしれません。
うちのじいちゃんはソ連国境にいて、少年兵などを訓練していました。
敵の陣地は丸見えで(こっちも)機関銃、砲などの位置をいつも確認しほうこく、
あと時々、捕虜交換なども・・・。
実戦で撃つことが無いので、時々猟に出て猪とか鳥などをとってたそうです。
そのとき使ったのが機関銃!(ほんとか?
その後、理由は言わなかったけど内地に帰る途中で日本戦車を見て
「ちっちゃかねー、こんなもんで勝てるとね?」
って、乗員に聞いたら
「敵戦車を見たら一目散に逃げます」
こりゃだめだ。
内地では、また少年兵の訓練。
つづく

289 名前:288のつづき[sage]投稿日:03/10/25 17:19 ID:???
あと、近くの空港にちょくちょく行ってたみたいで
飛行場のことも良く話しました。
飛行場の近くに戦闘機をうまく偽装しておいてても
すぐばれて機銃掃射されるので、偽装もせず置いていたら
敵に動かないものと思われて機銃掃射をまのがれた、
飛行機の燃料は竹の容器に入れて田んぼのあぜ道に置いていた、
出来立ての飛行機のエンジンを荷台に載せて牛に引かせ
飛行場のエンジンのついていない飛行機に取り付けていた
とかほかにもいっぱい話してくれます。
また機会があったら・・・

303 名前:289の続き[sage]投稿日:03/10/30 22:50 ID:???
次はばあちゃん
戦争末期、戦闘機による攻撃が増えいろんなとこに被害が出た。
動くものは何でも撃ってきて、家畜がよく殺さた。
その肉は肉屋さんに頼んで解体してもらい、近所に配ったそうです。
肉屋さんは、解体料の変わりにいい部分の肉をもらっていきました。

あと、ばあちゃんのお母さんの親戚の人が、独逸で仕事をしていたが
独逸が戦争に負けたので帰ろうと思ったが、ほとんどが連合軍に抑えられていて
帰るのが難しい状態だったが、いろんなとこをさまよい逃げながら
やっとのことで日本に帰ってきた。本当でしょうか?

292 名前:名無し三等兵[]投稿日:03/10/26 11:04 ID:MzOEAQwh
大正15年生のじいさんは、師範学校生時代に都下の石神井公園で、
池に落ちた爆弾によって浮かび上がったコイをひろって、近所の
農家の豚のエサにしたらしい。その後陸軍士官学校に入って、
千葉の九十九里浜で塹壕掘らされたとか。米軍上陸予定地点だったらしいから、
戦争が長引いてたら、守備隊として戦死していただろうな。

305 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/10/31 04:32 ID:???
今年の六月に亡くなった祖父は山砲三十六連隊・陸軍伍長で昭和二十年七月に
中国より本土防衛要員として帰国だそうです。
「馬で大砲を引っ張って運んだ」とか「万里の長城を大砲で撃ったor壊した」
「天皇の前で走った(運動会みたいな事をした?)」というような事を言ってました。
戦闘に関しては聞いた事はないですね。

只、戦争体験よりも車に撥ねられること3回、家畜の牛に刺された事もある祖父は
頑丈というか何というか。

祖母は出稼ぎだか行商だか軍需工場の作業員だかで東京に居たが前日に汽車で
帰郷したので難を逃れたと言ってました。

339 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/11/07 12:55 ID:???
昨夜放映の『トラ・トラ・トラ!』を見て思いだした。トピずれ気味だが…

じいさん、木曽の漆塗り職人だったんだが、金につられて名古屋の塗装工場へ。
「ゼロ戦の○は俺にしか塗れなかったんだ!」というわけのわからん自慢をよくしていた。
マルの仕上げにそんな奥伝があるのかどうかアヤシイが、戦時をつうじてまったく徴兵されなかったのは事実。

そのために敗色濃厚時には町内のイジメがえげつなかったらしく、空襲時、防空壕に入れてもらえずに
娘が死にかけた(っていうか、俺の母親なんだが)こともあったらしい。

 #教訓のないまま終わる。

365 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/11/11 01:45 ID:???
うちの祖父は三式戦に乗っていたらしいが二度も零戦に撃たれたらしい。
だからかどうかは知らんが大の海軍機嫌いで実家にある大量のプラモの山の中に軍艦は有っても海軍機は無かった。

369 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/11/11 18:11 ID:???
戦場での同士討ちは仕方ないよ。
ある統計では敵にやられるより多いそうだからね。
この前の米軍のイラク侵攻でも
M1がM1を撃ってニュースになっていたからね。
この科学の発達した時代にでさえそうなんだから
昔はもっとひどかったろうね。

371 名前:365[sage]投稿日:03/11/12 01:07 ID:???
>>369
>戦場での同士討ちは仕方ないよ。
代替機が来て初めての出撃で今度は足の指もってかれたと言っていたからな。
こんな目にあったら本人は仕方ないとは思えないと思う。
しかも特攻志願の血書を8月17日に出したら戦争は終わったと言われて初めて終戦を知ったらしい。
戦後も闇市で朝鮮人の愚連隊に刺されたり。あと少しナイフが長かったら死んでたそうで。
今も単車でこけて入院中だし。運がいいのか悪いのか。
今度の休みに見舞い行ってこよう。

390 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/11/14 21:58 ID:???
先日祖父が亡くなったあと、遺品を整理していると戦後の混乱期に書かれたと
思われるボロボロのノートが出てきました。読んでみると、戦中ニューギニア
にいたらしく、戦争末期にはあまりのひもじさに禁忌を犯しこと、そのことで
自分は靖国には行けない等の記述がありました。
生前はいつも笑顔を絶やさない祖父が戦争の話題になると、席を立ってしまう
姿を思い出し、涙がでました。
わずか60年前にそんな出来事があったことを考えると、今の日本を有難く思
ってしまいます。

424 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/11/16 09:18 ID:???
うちのばあちゃん、結構前からぼけてんだが、戦時中のことはまだよく覚えてるっぽい。
ただ、たまに脳内の時間が戦時中に戻ってるっぽい。
こないだも花火の音聞いてB29がどうのって大騒ぎ。まだ元気なじいちゃんいわく、
花火の音は対空砲の音とソクーリらしい。いまだに戦時中の悪夢に苦しむばあちゃんが気の毒

425 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/11/16 11:39 ID:???
死んだパアさんは、サイレンを聞くとトイレに行きたくなる、と言っていた。
小用を済ませてから防空壕に退避していた習慣が、抜けなかったらしい。
大阪空襲で焼け出され、故郷高松に戻ってまた空襲に遭い、
空襲のたびに子供を亡くしたので、かなり偏屈な性格になってしまい、
嫁(私の母)も、孫(私)も、すこぶる付き合い辛かった。
晩年まで、慰霊祭には欠かさず出席していた。

426 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/11/16 12:13 ID:???
うちのばあさんは、プロペラ機の音を聞くと空襲を思い出すと言ってた。
戦時中は大阪の郵便局で働いてて、働いてる途中に空襲が来たことがあったけど、
建物がコンクリート製だから焼夷弾ではビクともせず、屋上では男性従業員がバケツで消火してたらしい。

430 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/11/17 22:19 ID:???
うちの祖父は、戦争には行ってません。
その数年前、東南アジア方面に、軍命で農業の研修に行ったのが兵役の代わりだったとか。
占領地にどのような農業が適しているか、そういうのを調べる仕事だったそうで。
その関係で、戦争中はずっと台湾で農業指導。母は台湾生まれです。
台湾から帰国する時には、一緒に仕事をしていた台湾人が駆けつけて、
ただ黙って顔を真っ赤にして泣いていた、と、祖母は言います。
日本に帰国して、家族を連れて最初に行ったのが、明治神宮と皇居だったとか。
今になって、何で祖父の話をもっとよく聴かなかったかと後悔してます。
祖父は10年前に亡くなりました。

462 名前:名無し三等兵[]投稿日:03/11/18 12:01 ID:QUJpTIa/
うちの爺さんは、身長188cm、体重100kg(89歳現在でも)
の巨漢で、当時は「白兵でアメ公殺れる貴重な兵隊」として、本来の所属連隊ではなく(奈良県出身)
激戦地ばかり所属無視でとばされたらしい。
重慶-ニューギニア-ビルマ-フィリピンと転戦し、最後は本土決戦用員(高射砲装填手:久我山)として
内地で終戦を迎え死なずに済んだらしい。
その後は、大阪のヤミ市で、進駐軍とポリ公相手にゲリラ戦やってた。

468 名前:名無し三等兵[]投稿日:03/11/20 06:42 ID:1fquhao2
さて、何か当時のことをと仰っておられるので、私が動員されていた造船所での話を
させてもらいます。当時は今のような安全基準なんてものはないので、造船所での作業(私は主にリベット打ち)かなり危険でした。
作業中、上から人が降って来たり、焼けたリベットがすっ飛んで来たり。落ちてきた鉄板で人が真っ二つになったこともありました。
朝鮮人がわけのわからないことを喚きながら、手押し車で突っ込んで来るのには驚きました。
人が居ようが居まいがおかまいなしなんですから。危うく引かれそうになって喧嘩になりましたよ。憲兵が飛んでくる前に逃げたので、割を食ったのは朝鮮人の方でしたが。

造船所ではアメリカ人の捕虜も働いていましたね。げっそりやせて、可愛そうでしたよ。
まあ、日本人も食うや食わずだったので仕方ないのですが。監視の憲兵の目を盗んで片言の英語で話をしたりしましたが、
人懐っこいやつも多かったです。鬼畜のイメージとはずいぶん違うなと思いました。
一人一人で相対すればいいやつなのに、いったん艦載機に搭乗すると機関砲で女子供を追い回す。困ったものです。

動員先ではつらいこと苦しいことが多かったですが、同窓会で集まると
話は動員のことになります。地獄の釜のようなドック内で炙られ、コーリャン交じりの麦飯と腐臭の漂う得体の知れない魚の煮つけ食って、便所で呻吟したことは忘れられんのでしょうな。
いつか動員先の造船所へみなでいっしょに行こうと言ってるうちに、クラスの半分以上が鬼籍に入ってしまいました。残りの者も身体が不自由になってきた。人間、やれるときにやっておかねば後悔しますね。

491 名前:名無し三等兵 []投稿日:03/11/21 07:59 ID:W0EU9A3F
造船所で働かされていた捕虜の待遇はお世辞にも良いとは言えなかったですね。
げっそりやせて、服はぼろぼろで、腰にいつも空き缶をぶら下げていました(残飯を入れるため)
憲兵が捕虜に厳しかったのはもちろんですが、工員も些細なことで苛めたりはしてました。
日本各地で空襲や艦載機の銃撃による被害も尋常でなくなってきていましたから、
捕虜に憎しみを持つのは当然と言えば当然です。ただ、好奇心旺盛な
中学生としては、憎しみだけでなく、捕虜とコンタクトを取ってみたいという気持ちが押さえられなませんでした。私の中学では敵性語云々などどこ吹く風で、動員されるまでは英語は作文、文法、読解としっかり
勉強させられていました。その結果、英語の文化に対するあこがれみたいなものがありました。
インテリもどきの朝鮮人の「日本人は嫌いだが日本文化は好きだ」みたいなもんですか。
憲兵の目を盗んで話し掛けて、答えが返ってきたときはうれしかったですね。
「本当に通じた。生で英語文化に触れた」という感じですか。向こうもこちらが年端もいかぬ学生ということもあり気を許していたのでしょう。腹下しで困っている捕虜が多かったので、なけなしの征露丸などをやると大喜びしていました。


朝鮮人のことですが、巷では朝鮮人は日本人に虐待されていたということになってますが
私の知っている限りでは違います。一般の人には、むしろ怖がられていました。気性が荒く、
すぐ暴力をふるう。身体は大きいから、いったん切れると一人や二人では押さえられない。
おまけに徒党を組んで雲霞の如く集まって来るから、危なくてこちらから手を出せないですよ。
私の郷里にも朝鮮部落がありましたが、日本人はあまり寄りつきはしなかったです。
向こうもこっちに同化する気はさらさらなかったでしょう。彼らの暮らしは非常に貧しく、不潔で、子供などは頭に虱を一杯たからせていました。その虱をプチプチ潰して食べるのが気持ち悪くて
たまらなかった。ああまで貧しく、日本人にも疎んじられてるのに、なぜ日本に居続けるのか。理由がわからなかった。部落の朝鮮人は無理やり連れて来られたわけじゃないですからね。今から思えば、日本の悲惨な暮らしでも朝鮮に居るよりはましだったんでしょうね。

500 名前:海兵七十期のポーカー派 ◆ZYEMgbhZg2 [sage]投稿日:03/11/21 10:00 ID:???
491氏
朝鮮人の労働者でしたら、私も短期赴任中の呉工廠で若干名見た事がございます
私が見る限りは、大変知的水準の高い熟練工でありました。

捕虜でしたら、私の体験の中ではひとつの珍事がございます。
昭和18年のことでしたが、マーシャル諸島での混戦期に、
珍しく武蔵以下の艦艇が、トラックを抜錨・出撃との事になり出動いたしました。
出港してから20分くらいのことでしたが、突如艦隊に航空機から平文で
「作戦行動中に申し訳ない。偵察中に帰還方位を見失い帰還できなくなった。
そちらに余裕あれば収容ねがないか?こちら位置○○」
という趣旨の無電が着信し、また今現在こちらに接近してきているとの事でした。
急いではおりましたが、まだこの頃は見殺しにするほど戦局も切迫してはおりませんでしたので
収容しようとの事になり、「了解した、位置○○。」と暗号で返答いたしました。
ここまでならば、特段珍しいことではありません。「不時着収容」は少数例ですが
海軍でも前例がございます。(ただ、なぜかこの偵察機は「平文」で送信してきたのです。)
話はここからで、参謀長が「どこの所属か?この付近に作戦行動中で、なおかつ艦偵を
搭載している艦はいないはずでは?」とおっしゃられましたので、
私が調査を申し出て調べたところ、伊号潜水艦数隻が作戦行動中だったので
「零式小型水偵ではないか?平文なのはよほど切迫しれいるのかも・・」と報告したところ、
零式小型水偵に山本長官が興味を示され、武蔵直々に収容しようとの事になり
収容行動のために単独行動となりました。

501 名前:海兵七十期のポーカー派 ◆ZYEMgbhZg2 []投稿日:03/11/21 10:01 ID:Xpn7LoFS
ところがそのまましばらく待っても
航空機の姿が見えないので不思議に思っていると、さらに平文で
「どこを航行中か教えてほしい、先ほど無電を受信したが、暗号で送信されてもこちらには
解読の手段がない。現在位置○○(武蔵からおよそ8分の距離でした)」と連絡が入り司令部一同大騒ぎになりました。
なんとこの偵察機は、『米軍機』だったのです。
最初は参謀長もまさかと思われたのか、「事態が把握できないので、詳細に伝えてほしい」
と返答したところ、発進後スコールに巻き込まれて帰還方位を見失い、距離が開きすぎて
味方とも連絡できなくなった。外洋下で不時着水も困難、偶然そちらの周波数無電を受信したので
観念して水偵ごと捕虜にしてくれ」と言う内容でした。

こうなったのも私や参謀、そして当の長官ご本人の「早合点」が重なったのが要因なのですが
いまさら戦闘準備して撃墜するわけにも行かず、このまま放置して
位置を通報さてはたまらないと、結局収容ということになったのですが
私も第三砲塔脇から見物いたしました。乗組員や仕官、それに山本長官まで甲板にあらわれて
この、突飛な訪問者を収容いたしました。大きく取り舵を切って収容し、
艦尾のクレーンで、後部飛行甲板に収容いたしました。
なかに乗られていたのが大尉と中尉で、山本長官直々に挨拶し所属その他を聴かれているようでした
まさに珍事なのですが、なぜ記録に残らなかったのかは謎のままです。
戦時中の事だったので、あえて残さなかったのではないかと思います

502 名前:海兵七十期のポーカー派 ◆ZYEMgbhZg2 []投稿日:03/11/21 10:08 ID:Xpn7LoFS
戦時下での捕虜の扱いに関してはあまり記録も少なく
また残っているものも虐待行為などの記録が目立ちますが
海軍に関しては日露の役でのロジェストベンスキ将軍と東郷元帥との美談に
心酔しているものが多かったせいか、少なくともこのときはとても丁重に
扱った事を覚えております。
海軍の艦艇は欧州の海軍艦とは異なり捕虜収容施設がないので
収容後大尉の方は予備士官室、中尉の方も一般水兵予備休憩室に収容されて
普通の仕官と同じ扱いをしておりました。

503 名前:海兵七十期のポーカー派 ◆ZYEMgbhZg2 []投稿日:03/11/21 10:10 ID:Xpn7LoFS
付き合いはおよそ20日間で食事も何度かともにいたしましたが、
この大尉と中尉はトラック帰着後、捕虜になり春島の飛行場整備労働に回されていた様ですが
私が見る限りは「拘束された客人」という扱いでしたね。
生きて本国に帰れたのかは存じませんが、おそらく米軍トラック大空襲の時に
お亡くなりになられたのかもしれません。

504 名前:海兵七十期のポーカー派 ◆ZYEMgbhZg2 []投稿日:03/11/21 10:16 ID:Xpn7LoFS
お名前はもし生還成されていたら名誉を汚す事になるので申しませんが
収容したほうもされた方も、特に嫌悪の雰囲気はなく
御互いに「嫌な時代になった」と言うような事を愚痴り、故郷や
米海軍の機密に触れない限りの生活を話していただけました。
トラック帰着後に陸軍から、「捕虜を甘やかすのは如何か?」と
文句を言われましたが、対応に出た当直将校は「陸軍は知らんが
海の戦争は軍艦がする、水兵は部品に過ぎない。」と追い返しておった事を
覚えております

480 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/11/20 17:21 ID:???
3年前に鬼籍に入った祖父に小坊の頃聞いた戦争の話。
本人は陸軍の整備兵、本州中部の今も自衛隊の駐屯地がある海なし県から南方へ行ったとしか教えてくれなかった。地名はフィリピンだけ聞いた覚えがある。
「武蔵と大和は電波で繋がってて同時に大砲が撃てた。でも一斉射撃すると武蔵の電気が全部消えた」
…後半は本当なのかしりませんが未だにわすれられません(笑)
「南方にいた頃一式陸攻(あやふやです。ひょっとしたら違うかも)の整備していた。オイルクーラーがしょっちゅう壊れて苦労した。
ある日午後一で出撃する機の整備が長引いて数人で飯も食わずに整備してて、終わらせてから飯喰ってたら空襲があって出撃で並んでた連中や他の整備兵たち含めて隊がほぼ全滅した。
その後内地勤務になった」
ほんとかどうかは分かりませんが本土勤務だったのは間違いないようです。戦友会の通知なんかも見たことないし、ほんとに全滅してたのかな…とも思います。これ以外の戦闘に関する話は聞いたことないんですよね。

祖母に聞いた話は一つだけで、「裏の庭でどすーんっ!とものすごい音がしたので近所中に「うちの庭に爆弾落ちたでみにきてくりやー!」と触れ回ったけどどこ探しても跡も無い。
結局近くの河原に落ちた爆弾の爆風で屋根の石が落ちてただけだった。爆弾落ちた跡探すなんて馬鹿だったいなぁ」と笑ってました(笑)

祖父の弟は陸軍士官学校から満州行って引き上げてきた時に東京で車にはねられて片目失明、6年前に自宅の前で跳ねられて鬼籍に入りました。何も聞けなかったけど何か硬いものを切って欠けた所を研ぎなおしたような軍刀が残ってます…ナニやってきたんだろう。

隣組の爺さんは中野学校出でした。結局最後まで何も語らずに逝かれました。

525 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/11/22 00:09 ID:???
曾祖父が青島攻略に参加していたらしいが、
いまさら話は聞けないよなぁ。

と言うわけで祖父から聞いた話ですが
戦争末期、内地でも食う物がなくなって(支給された物かどうかは判りませんが)
遂に、革靴を鍋で煮て食べたそうです。
他にヘビも山から捕って食べたのだそうです

この前ニュースで北朝鮮の人達が玉蜀黍の芯をお粥にしていたのを見て
「なんだ、おらも色々食ったけどもここまではしねがったな。」
 
こんな感じらしい    
    白米>>>ヘビ>>革靴>>>>>>玉蜀黍の芯

598 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/11/24 10:11 ID:???
俺の父方のじーさんは厚木の航空隊基地で整備兵してた。
じーさんかなり間抜けな人で、ある日零戦にガソリンを入れようとした時
誤ってガソリンの入ったバケツをひっくり返して、上官に死ぬほど殴られたと話してくれた。

714 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/11/28 12:42 ID:???
戦争体験とは違うけど。
うちのじっちゃんは、幼いころ満州にいてすごくいい暮らしをしていたみたい。
そのころの話ですが。
兄と二人で帰り道を歩いていたら、馬賊に誘拐された。
で、警察だか軍だかが出てきて、無事帰ってこれた。
じっちゃんは幼かったから、誘拐された記憶がまったくないらしい。
満州での生活の話はよくするのに、誘拐の話はこれだけ。
じっちゃんのお兄さんが生きていたら、もっと面白い話が聞けそうなのに。残念だ。

715 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/11/28 12:50 ID:???
似たような話でウチの父は戦後ハルピンにいたときに
ばあちゃんがチブスで死にかけていて、あまりに汚い格好だったので
ロシア人夫婦が孤児だと思って家に連れて帰って、
ロシア風お風呂に入れられて大事にされたって。
じいちゃんが心配して迎えにきてくれるまで良く待遇してくれたらしい。
じいちゃんが迎えに行ったらすぐに返してくれたそうです。
あやうく残留孤児になりそこなった話ですが、父はよく覚えていないそうです。

741 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/11/29 14:48 ID:???
俺のじいさん
南の方で海軍航空隊付の天気図書きやってたそうな
子供の頃何も見ないで東南アジア、オーストラリア付近の
地図をスラスラ書いているのを見てすごいと思ったよ

742 名前:名無し三等兵[]投稿日:03/11/29 16:36 ID:YJlEovlm
>>741
へー。どういう職種か教えてくれませんか。
どんな科にいたか、階級はどのくらいかとか。

744 名前:741[sage]投稿日:03/11/29 18:10 ID:???
ごめん俺が小学生の頃に亡くなってしまったので詳細は不明
天気図書いて偉い人に渡すとどの飛行機が何時に飛ぶか決めると言ってた
間違ったことを書くと仲間が遭難して死んでしまうから重要な仕事してたと酒飲んで自慢していた
そしてNHKのラジオの気象通報って番組で天気図書く方法教えてもらった
あと記憶に残ってるのは 桜(?)のマークの金バッジ見せてもらったぐらいかな

俺が軍事系に興味を持ったのはそのじいさんから大空のサムライって本をプレゼントされて
この本に載ってる人達の中に仲間だった人がいるんだよと言っていた名前まで言っていたが覚えていない
当時小学生だった俺はなんだかわからず本棚へ高校生になったある日見つけて読んだのが初まりです

役に立たなくてごめん

752 名前:名無し三等兵[]投稿日:03/11/30 15:54 ID:OqWgOLpp
うちのじいちゃんは長門にいたんだけど食い物で困ったことはないが(他の船にあげるほどあった)
水が貴重で一日一升しかもらえなくて苦労したと言ってる。
砲兵だったんで距離とか計算がめんどくさくて嫌だったと・・・
まぁ長門で幸運だったね

754 名前:名無し三等兵[]投稿日:03/12/01 00:14 ID:jRX8J5c1
私の爺さんは中国戦線にいました。聞くと、おっそろしくて敵なんか見れんかった。
38式歩兵銃だけ出して、めくら撃ちに撃ちまくったから人には当たっとらんだろう。
 と言っていました。
そんな爺さんも終戦近くなると内地に転属で、長崎の小さな島に3名で駐屯していま
した。竹やりを作らされ、これでどうやって戦うんだ。と仲間同士で真剣に話あって
いたそうです。
ある日、爺さんは長崎の司令部に報告に上がる事となり、司令部で長い時間待たされ暇を
持て余していたところ、空襲のサイレンがなり始め、みんなが防空壕へ走って行きました。
 爺さんは何処へ行けばいいのか、聞く人もおらず、トボトボと防空壕を探していたところ
ようやく運動場に小さな防空壕を見つけたので入ることにしました。
 数歩中に入った時、突然首筋に熱いものを感じて、とっさに手で押さえた途端
爆音が響きわたったそうです。
 それから先は話してくれません、思い出すのも嫌な感じでした。

786 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/12/03 21:02 ID:???
ガダルカナル島で米兵の荷物を漁っていると、小さな石鹸の様な物を発見
これは何だろう?と首を捻っていると部下の一人が「これはもしかすると食料なのでは?」
食べてみると、確かにその通り
これが、うちのお爺さんが生まれて初めてチーズを食べた瞬間であった

他にもこっち(日本軍)は機関銃をタタン、タタンとしか撃てないのに
米軍はダダダダダ!と撃って来るとか、まず水と食料が欲しかったと話していました

790 名前:名無し三等兵[]投稿日:03/12/04 04:04 ID:pnmNw+yT
漏れの祖父が、もう絶命する数十時間前のこと、
うちの近所では火事になるとサイレンが轟々となるのだが
(それ自体も空襲警報らしい、、今でも軍需工場地帯なので)
縁側で、そのサイレンを耳に(゚Д゚)ポカーンと口を開いている祖父に
「竹ヤリ持って飛び出したって、突く前に撃たれるぜ?」と冗談を言ったら、
暫くして、呟きはじめた、、
「あれは、あくまで練習でな、実際に米兵ども向かい合った時は
こう、、先を尖らせた管の後に、一発だけ小銃の弾を込めてな、
後から石か何かで叩いて、一正射してから突撃するんだよ。
実際、おおよそは外れて、十中八九は撃ち殺されるんだろうが
残りの人数が殺到すれば、、」
この辺まで話して、また寝てしまったんだ。そのうち、
また聴こうと思ったが、それから数日後には墓にはいってしまった。

792 名前:782[]投稿日:03/12/04 04:59 ID:jlvKCR59
高校の担任が元海軍機関中尉で、戦艦大和に乗ってた
そうだ。或る時短艇から大和に乗り移る時、海に転落して、短艇が戻ってくる
まで、海流に流されまいとして舷側の鉄板と鉄板の隙間に必死でしがみ付いて
いたため、指が曲がってしまい、今でも真っ直ぐに戻らないと言っていた。

あと、長崎だか広島だか忘れたが、原爆投下直後に救援のため市内に入り
結果、被爆してしまって、障害者手帳を持ってると言っていた。もっと
話を聞けばよかったんだが、その当時僕らの地方は、まだベトナム反戦の余韻
が残ってて生徒たちも僕を含めて遅れて来た左翼揃いだったから、その先生の
戦争の話には「また始まったのかよ」といった冷ややかな反応で、今思うと
人格者だっただけに僕らに伝えたいメッセージがあったんだろうし、もっと
聞いてあげれば良かったと後悔先に立たずというやつ。

799 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/12/07 03:23 ID:???
爺さんの話です。
ある時夜中に腹減って冷蔵庫からソーセージ食ってたんです。
そんで誰か来たと思ったら爺さんがそこに。
「わしゃあ兵隊の中ではいちばんえらかったばってん(多分兵長の事だと思う)、
いつか下の兵士が今のお前みたいに
夜中に隠れて飯食っとったけん殴ろったたい。昼に腹いっぱい食っとけ。」
と怒られました。他界してから戦時の事を聞いとけば良かったと後悔。悲しいです。

あと自分が住んでる町は戦艦大和の船長の出身地だったので小学校に大和の模型があります。

833 名前:名無し三等兵[]投稿日:03/12/13 20:51 ID:jdw9enpm
母方の祖父の話です

戦争最後の年、海軍の予科練で戦闘機(機種は不明)に乗っていたそうです。
漏れは彼から直接話を聞いたことはない(話すと、必ずうなされるので話してくれない)ので
母から伝え聞いた話なのですが、首都圏の基地で訓練していたそうで。
一度だけB-29の迎撃に上がったら、距離を見誤ったために撃った弾は命中しなかったそ
うです。

それから、基地がそばの都市といっしょに空襲を受けたとき、彼の戦友が「今街に住んでい
る両親が死んだ」といって聞かなくなったそうです。
そんな事はない、きっと防空壕に逃げて無事だろうと祖父は彼をなだめたそうですが、彼は
そこに両親が来ているといって、基地の隅のほうを指さしたそうです。その先には、人魂が
二つ浮いていたとか…。

祖父はまだ生きておりますが、戦争体験がとらうまになってしまっているようなので、残念
ながら彼に直接私が話を聞くのは無理かもしれません。長文スマソです。

836 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/12/14 14:48 ID:???
俺の爺様(まだまだ元気)は露助に捕まって一時的に捕虜になったらしい。
で、収容所で人数確認させられるとき、その日の担当の露助が五以上の数が数えられない奴で
寒い中何十分も待たされたとか。

838 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/12/14 18:33 ID:???
>836
うちの伯父も同じことを云っていた。
勲章をいくつもぶらさげているくせに連中は人数を数えられなかったそうだ。
朝の寒い中点呼に時間がかかるので、体力の無い戦友が倒れたそうだ。

839 名前:名無し三等兵[]投稿日:03/12/15 00:44 ID:MEiR0Klj
私の祖父は戦時中ニューギニアにいました。
食べるものが少なかったが何故か醤油だけは大量にあったので、
夜になると海に行ってなまこを採って醤油で食べていたそうです
肩の骨を米兵に撃ちぬかれて動くのは動くし、重いものも運べた
のですが、骨の一部が無いので五右衛門風呂に一緒に入ると肩の
くぼみにお湯を入れて水溜りを作っては孫の私に見せてくれた
ものです。

840 名前:名無し三等兵[]投稿日:03/12/15 01:10 ID:W4PAwv/z
僕の曽祖父は海軍軍医大佐でした。
残念ながら、僕が生まれてすぐに他界してしまったのでこれぐらいしか分かりませんが
胸に勲章がたくさんついて祖父とたっている写真があります。
祖父も長崎の海軍医科大学校(名前はうろおぼえ)の人です。
自転車で出かけているときに、戦闘機に左胸を打たれましたが、急所をはずし、長崎の病院に入院しました。
祖父はそのまま原爆の日までそこにいたので、
当然、原爆の被害に・・・


っが、いきてます。
祖父曰く、爆心地から800mたらずだったそうです。
酒がはいったときですが、落ちてくる音がきこえたともいってました。
そのご、長崎から神奈川まで(もちろん船も)歩いて帰り、
もちろん被爆して紫色のあざがでましたが、克服。

いまでも、50m30秒で泳ぐ祖父です。

843 名前:名無し三等兵[]投稿日:03/12/15 15:14 ID:7DBQdTUk
漏れの知ってる人の親父さんは、広島に原爆が落ちたとき、
爆心地のすぐそば(直線で300mほど)の紙屋町のビルに居たらしい、
んで、無事生還して今も存命。
ビルの同室に居た方はほとんど亡くなられたそうだ。

今語られている被爆直後の有様は、「まあ、実際の情景の十分の一ぐらいかな」とのこと。

854 名前: []投稿日:03/12/16 10:43 ID:m0y4kDO2
うちの爺さん婆さん(共に故人)から聴いた話

20年8月6日の朝、広島から直線距離で70キロ離れた町の自宅庭で、婆さんは選択物干し。爺さんは近くで畑作業していた。良く晴れた日だったそう。

その時、婆さんは「パラパラッ」と不思議な感覚に気がついたたそうな。干していた洗濯物や辺りが光ったという

爺さんは何も気がつかず「お前、何ぼけんとんじゃ..」と笑われた。

翌日から、被災者達を通じて話を聞いて納得したそうです。

ちなみに爺さん婆さんは、14年に帰国するまでアメリカで働いていて、
「アメリカと戦うなんて大馬鹿。行ったこともないやつが夢みたいなこと言っている」と公言してはばからず、出征する息子(私の親)に、「こんな無駄な戦いで死ぬのは犬死に、絶対死ぬな」と言い切っていたそうな。

父は乗船前の検査で結核が見つかり、おかげで私が生まれました

888 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/12/23 00:59 ID:???
ウチの爺さんは兵隊じゃなかったんだが、戦時中外航船のキャプテンをやっていて、
フィリピン方面の航路を走ってたそうです。

んで、2度ほどボカチン喰らったらしい。
2度目は(話から察するに)たぶん、捷一号が終わった辺りで、拾われた船にシンガポールまで
連れて行ってもらったはいいが、帰るすべが無くて呆然としてるところに、軍艦伊勢にのっけて
もらって内地に引き上げたと言ってました。
帰る最中、エライ空襲にあったそうだが、「戦艦に乗ってて沈むんだったら、もー、しょうがねえ」
と割り切ってたそうです。

この話を聞きながら「ああ、北号作戦か…」とは思ったモノの、なんとなく口に出すのが憚られ、
(当然かも知れません)、爺さんの話を黙って聞いていました…。
爺さんの話は、漂流中目の前で漂ってたコック長がフカに半身食われただの、フカがぐるぐる
回ってるトコで、助けにきた船のロープを取りに泳いだ話(曰く、「全力で泳いでいればフカに
食われない」そうで…)だの、凄まじい話ばっかりで、その実体験の持つ重みに、自分の俄知識
を披露するのは余りにも無粋で失礼な気がして…。

894 名前:名無し三等兵[age]投稿日:03/12/23 19:39 ID:???
うちの過去帳より転載
「勁猷院勇清居士 俗名清
 北村家長男として生まる 
 幼少より武門に秀で、また学問を修る 忠孝比類無し
 その学問の特に秀でたれば、海軍兵学校三十五期に選ばれ家門に錦を飾る
 されど人の運命は計り難し 
 少尉候補生に任ぜられ、軍艦松島にて練習航海の帰途 
 明治四十年四月三十日馬公港に於いて轟然たる爆音起れば、軍艦松島は瞬時に沈没す
 その天を焦がす火炎に命定まり、また身は四散し煙と失せ果てぬ
 両親の悲嘆限りなし その身国に捧げたるものなれど、その命尽きること余りに早きに過ぎぬ」
一部虫食いと滲みで判読不能、手を加えた

いかん、なんだか読んでて悲しくなってきた・・・・
      
963 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/12/26 19:52 ID:???
うちのオジィは幼いころに沖縄戦を体験したんだけど
家族6人のうち、オジィ一人だけ生き残った。
他の家族は米兵に殺されたらしいんだけど、
怪我を負いながらも一人生き残り、泣いてたころを
若い青年の日本兵に助けられ命を取り留めたって言ってた。
東北訛りでしきりに『家族を助けられなくてすまない』
って言われたらしい。その後、その青年の日本兵は
オジィに手当てをしてそのまま米兵のいる
戦場に向かったらしい。もうオジィは亡くなったけど
戦争の話をするといつもその時の若い
日本兵のことが気になるって言ってたなぁ。

966 名前:潜水艦乗りの孫[sage]投稿日:03/12/26 20:09 ID:???
うちのじいちゃんは潜水艦乗りだったそうで、イ25号(たしか?)ともう1隻に乗った後、
海軍兵学校の通信の教官になったそうで、教官のときに終戦を迎えたそうです。
沈没しそうになったことがあるとか言っていたような記憶があります。
「海軍よもやま話」(だったような気がします)という本にも潜水艦のことが書いてあり、じいちゃんも
実名で載っていました。(これだけははっきり覚えています)
この本の内容については、「そんなこともあったが実際はもっとひどかった。おもしろおかしく
かいてある。」と言っていました。
また、じいちゃんは当時のことを話したがりませんでした。やはり悲惨なこともたくさんあったのでしょう。
ちなみに海軍→国鉄→某電機メーカー→アルバイトという経歴です。

本年8月に亡くなってしまい、もう話を聞くことができませんが、今ならきっといろいろな話を聞くことが
できたと思います。。。

長文スマソ

969 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/12/26 20:37 ID:???
10年程の付き合いのあった近所のじい様が今年の夏に亡くなった。
死期を悟ったのか、この正月に戦争中のことを聞かせてくれた。
7人兄弟の末っ子で、2人の兄が職業軍人で2人とも戦死したそうだ。
本人も軍人になりたかったそうだが、学徒動員で工場へ。
名古屋の熱田で軍用機のタービンを作っていたそうだ。
仕事の内容を詳しく知りたかったので、じい様に記録を残してくれないかと頼んだ。
「わしゃ、文章は苦手じゃて」
その後、癌が見つかり入院。
奥様の話ではじい様が病院のベッドで毎日のように、
「書けなくてすまんかった。申し訳ない」
と、言っていたそうだ。

つまらないことを頼んだと後悔している。

915 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/12/24 12:29 ID:???
先日亡くなった近所の奥さん、最期の一言が、
「B-29が・・・」
だったそうだ。苦労したんだね。


関連エントリー:
あなたのおじい様の戦争体験を教えて[その2]
あなたのおじい様の戦争体験を教えて[その4]
     
  1. 投稿日:2008/08/02 13:20
  2. 戦争は確かに悲惨です。戦後、戦中に生まれた傷は忌まわしい記憶として闇に葬られ、信じた歴史を否定することのみによって生き残りは在れました。高度成長期もそうでした。貧困の悲惨さを知っていたからこそ豊かさという憧憬に身を委ね、そして今の生活の礎となりました。
    そこでは、確かに多くのものが失われました。多くのモノを見捨てました。それ故に、すべての過去には悔恨が暗く影を落としており、体験として若い世代に語られることはほとんどありません。
    ですが、そこにはただ生活があり、日常があったのです。そしてその連続の先に今僕らがいます。それは当たり前のことだけど、でも上の世代と食卓を共にし、汗を流し、酒を酌み交わすということがなくなった僕らにとって、世代が繋ぐ歴史から切り離された僕らにとって、今目の前にいる生きている誰かから聞かされる一個の人生からかいま見る歴史というのは、僕らが此処に生きる為に本当に必要なモノなのだ、僕が僕として生きるために必要なことだったのだ、と最近よく思います。
    「戦後」というのはそうやって記憶を繋いでいくことでしか超えられないものではないでしょうか。
  3. 投稿日:2008/08/02 13:21
  4. 以前別のブログの米欄で
    「うちのじいちゃんは"もう戦争はこりごり"って言ってた」
    というような本文に
    「そういう弱腰な奴がいるからああだこうだ!」
    って噛み付いてた奴が沸いてて不愉快だったなぁ。

    自分は震災経験者なんだけど、
    「結果的に地域の絆が深まった」とか
    「全部なくなったことで再開発がうまく行った」
    とか言われてもやっぱり「震災はこりごり」って思う。

    だから
    「戦争には大儀があったんだ。アジアのためだったんだ」とか
    「家族や国を守るためだったんだから胸を張っていい」
    と言われても「戦争はこりごり」って人がいたって仕方ないと思うんだよね。
    経験した人だからこそ感じる空しさや恐怖もあるだろうし、
    それを未経験の奴が一方的に「弱腰だ」なんて言っちゃいけないと思う。

    自分は左翼でもなけりゃ盲目的な反戦無抵抗主義でもないけど、
    主張に熱が入るあまりまわりを見失っちゃいけないよ。
  5. 投稿日:2008/08/02 17:16
  6. B-29がバスト29のことであってほしい。
  7. 投稿日:2008/08/02 18:06
  8. >>62
    2ちゃんのおかげって・・・。
    正しい歴史なんてどこにも無い。
    自分の正しいと思うことしか正しい歴史なんて無いんだ。
    第3者から見れば、この人もまた2ちゃんねるというネットメディアに踊らされた一人に過ぎない。
    正しいとか真実とかどうとかは、自分の足で調べて見つけるものだと私は思う。
  9. 投稿日:2008/08/02 23:36
  10. 戦争がトラウマになってる老人って多いね
    死んだじっちゃんもそうだった
  11. 投稿日:2008/08/03 18:46
  12. 米1003
    Bomberの事だけどなwとマジレスしてみる
    B29は原爆の事で日本でのイメージは最悪に近いよなぁやっぱり
  13. 投稿日:2008/08/03 19:15
  14. 何が正しいのかとかわからないけど
    ただただ悲しいなあ、怖いなあ・・・と。
    まだ青臭いガキだから勿論戦争体験とかはないんだけど、
    そういうのを語ってもらったときの視線とか表情とかがすごく印象に残っている。戦争は悲しいと思う。
  15. 投稿日:2008/08/03 23:28
  16. まあ、太平洋戦争の様に勝ち目の無い戦争はするべきじゃ無いわな。
    ただ、お題目の様に「戦争怖い」と唱えていたんでは、外交の駆け引きが巧くならん。
    日本は、戦争の恐ろしさは学ぶが、「何故戦争が起こるか?どうやったら戦争にならんか?」と言う事を学んだりせんからな。
    自分で学ばん間は、アメリカ頼みしか無いだろう。
    それが嫌なら、学ばんといかん。
  17. 投稿日:2008/08/04 00:04
  18. 俺のじいちゃんは戦争は良し悪しはともかく、
    「あれは楽しかったのー」とかマジで言ってたよ。

    俺ファイアーエムブレムが好きで、
    昔夏休みに田舎のデカイテレビでやってたら、表示されてる騎兵見て、
    昔のワシみたいなのがいるとか言って、
    嬉しそうに戦争のことを話してくれた。

    じいちゃんも騎兵だったらしくて、食料運んだり
    戦ったりしていたらしい。

    戦争の話なんてタブーなのかと幼心に思ってたから、
    凄いびっくりしたの覚えてる。

    じいちゃんはスポーツ少年だったらしいんだけど、
    辛いこともあったけど、なんていうの、
    甲子園を目指してる高校生なんかと同じで、
    みんなで共通の目的の為に、俺たちは
    凄く大切なことをやっているんだという感覚だったらしい。
    色んな思い出が詰まってる。青春だったと言ってた。
    落ち込んでるヤツを励ますために、
    ハーモニカを習得(糞ウマイ)して、
    音楽を聞かせてみんなを楽しませたり。

    もちろん体に弾が入ってたり、
    辛かったことも沢山あるけど、
    全部ひっくるめて、あの頃が一番楽しかったって。

    戦争から帰ってきて馬の代わりにバイク乗り回したり、
    アメリカで商売初めて大成功したり。

    あの頃戦争なんてとんでもない!と両親も先生も
    誰も彼もが言ってたけど。

    全部込みで楽しかったとか言えちゃうじいちゃんマジでスゲーと思った。
  19. 投稿日:2008/08/08 14:58
  20. ※1008
    おそらくじいちゃんは、“戦争そのものが楽しかった”のではなく
    “自分の青春時代のあの頃が楽しかった”というニュアンスのほうが強いんだと思う。






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