にくろぐ。

昭和の香り

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引用元:軍事板「あなたのおじい様の戦争体験を教えて」
http://hobby3.2ch.net/test/read.cgi/army/1053513337/

1 名前:岡康[]投稿日:03/05/21 19:35 ID:r8pvQaLE
戦後60年近くになろうとしていますが太平洋戦争に
参加したおじい様とおばあ様の体験を語り合い交流
しませんか?

23 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/05/21 23:26 ID:???
漏れのじーさんは戦争には行ってません
料理人でコック長をやってたようで
ただ天皇陛下に料理を出したのが誇りだそうです
でも張り切ってい料理を準備していたが
陛下にカレーを注文されて(´・ω・`)ショボーン としてたそうな

29 名前:名無し三等兵[]投稿日:03/05/22 18:22 ID:dUP5syX1
陸軍航空隊の整備兵だったうちのじいちゃんは、墜落した敵機の部品の精度と自分がいじっている日本機の部品の精度を比較して、「この戦争は負ける」と思っていたそうだ。

36 名前:名無し三等兵[]投稿日:03/05/23 03:21 ID:bvk4Zzld
うちの爺さんの弟は満州で師団の参謀をしていたそうです。
ソ連の侵攻の後、捕虜となり、暫くシベリアに抑留されていたのですが、なんとか帰国出来ました。
爺さんたち家族は、士官はまず処刑されているだろうと、弟の帰国は全く予想していなかったので、
帰ったときはみんなで泣いて喜んだらしいです。
爺さんの弟は、ソ連では赤化教育を散々されたが、「あなたがたの言ってることはもっともです」
と適当に返事をしていたと言っていました(w

39 名前:名無し三等兵[]投稿日:03/05/23 18:15 ID:70IjdJ0b
うちの死んだじいさんは昭和18年にドイツへ他の陸軍将校とともに軍事オブザーバー
として派遣され、ドイツ降伏まで在留。場所は忘れたがベルリンの近く
の士官学校だか兵器学校だかにいて、ロシア軍が接近したので、陸軍省の命令で他の日本人将校
と北方の港湾に逃れようとしたが(英米軍への降伏は論外だったため)、途中ロスケに包囲されて、
そのまま降伏。しかし当時ロシアとは日本は交戦していなかったので、ひと悶着ありながらもその後
モスクワ経由で満州へ放流される。しかし、その満州で再び侵攻してきたロスケにつかまり、運悪く
シベリアに。三年ほどの拘留を経て帰国。ドイツでのロスケの残虐行為を目の当たりにし、
抑留中に散々いじめられたじいちゃん、はっきり言って死ぬまでロシア人を憎悪してました。

45 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/05/23 23:22 ID:???
うちの母方のばーちゃん、
終戦時に国後から引き揚げてきて別海に住んでたんだそうだけど、
戦後かなり長い間、千島との間の海峡では日本の領海なんぞあってなきが如しで、
夜な夜なソ連の哨戒艇や駆逐艦が沿岸数百メートルまで接近しては
陸上の港湾施設や集落を探照灯で照射して歩いてたとか。
「人狩りに遭うぞ!」つって、地元民は夜の間は決して家の外に出なかったそうだ。

47 名前:名無し三等兵[]投稿日:03/05/24 08:41 ID:GhDGvLdJ
おれのじいさんはなんだかかわいそうだ・・

無口な人で、長くは喋ったことがないけど、
ばあさんによると、戦前はうるさいほどに喋って、元気だったそうだが
最近はだいぶ治まってきたそうだけど、
ひどいと週に1回は食事も取らずに、
「俺は捕虜を殺した、俺は捕虜を殺した・・」って魘されてるんだって

ハゥ

51 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/05/24 11:04 ID:???
うちの母方の爺さまは陸軍歩兵で中国で戦っていたそうな。
一番、進んだときで柳州までいったんだって。
桂林の戦いで水筒を撃ち抜かれてしまって戦闘後に困っていたら
その時の師団長が自分の水筒をくれたらしく今でもそれを大切に使ってる。
長生きして欲しいよ、爺ちゃん。

55 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/05/25 15:27 ID:???
おいらのじーちゃん、もう死んじゃったので詳しい話を聞けない
のが本当に残念なだけど、小さい頃聞いた話で覚えているのが
じいちゃんは海軍に入っていて(たぶん偉くはなかった感じ)
船だか潜水艦だかに乗っていたんだけど、1回目に乗った船が
撃沈され、その後乗った船も撃沈されたのに2回とも生き残ったって話。
(とんでもなく漠然としていてスマン)今思うと2回も撃沈されて
生きてたって本当の話?って思っちゃうよ。

じいちゃんの話は、それでお前が産まれたのは本当に運のいいこと
なのだから命を大事にしる!とか絶対に戦争は起こしてはならねぇ!
とか人はいつ死ぬかわからないのだから親や仲間を大事にしる!
とかいう説教で終わるパターンだった…。でも小さい頃の記憶だから
いつの戦争のことなのかとか全然分からないんだよね。

マジで2回とも生き残ったのかなあ?そういうのってあり得る話?
おいら戦争のこと全然分からなくて未だ半信半疑なんだよね…。

57 名前:じんべえ[]投稿日:03/05/25 17:26 ID:3GXPmFj7
いとこのじいちゃん
元海軍少尉で(特務)ラバウル航空戦に上飛曹として参加していたときのこと
語呂がいいので「波平行安」の刀を座席の後ろにつっこんで出撃していた。
ある日、空戦中に敵の放った弾丸が風防を突き破り、軍刀の切先三寸のところに
命中し、頭からわずかに弾道がそれ、助かった。
今でも弾痕のついたままの刀を宝物として持っている。

58 名前:名無し三等兵[]投稿日:03/05/25 18:31 ID:Vl31Nnow
>>55
うちのじいちゃんは正確に言うと沈没1回だけど、1回目はミッドウェーで最上に乗ってて、
三隈にぶち当てられた近辺にいたから、危うく・・・
で、勤務所が飛行甲板になったから駆逐艦に移ったら、ほどなく潜水艦に雷撃されて沈没。
10時間くらい海に浸かって漂流したって。
そういやぁピカドンの時は呉に居て、きのこ雲が良く見えたって言ってたな。
>>57
良い話やね。さすが武士の魂日本刀。当時から大切にしていたから守ってくれたのかも。

61 名前:名無し三等兵[]投稿日:03/05/25 20:51 ID:Okm1cQUI
>>58
うちのばあちゃんも呉在住。しかもその日は家の前の海で家族で泳いでたのでよく見えたらしい。
うちの爺さんはビルマ戦線に砲兵として従軍したけどイギリス軍の捕虜になってたらしい。
ビルマへの慰霊ツアーのさそいがあるたびに「現地の人間にあれだけひどいことをしていながら、どのつらさげてビルマにいくつもりか。」って激怒していた。

62 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/05/26 05:20 ID:???
>>58
おや、そちらもビルマ戦線で砲兵ですか。

うちの爺さんは野戦重砲兵第3連隊(三島)でインパール作戦に参加していたそうです。
もう随分記憶が薄れてしまって、大した事は聞き出せていないんですけれど。
野戦重砲三連隊は当時珍しい牽引車装備の機械化砲兵で、それが自慢だったのか
「うちの連隊は挽馬(ばんば)じゃないんだ」を何度も聞きました。

「火炎放射でやられた砲陣地に入ったら、みんな砲の傍で死んでいた。
分隊長は砲身にまたがったままで焼け死んでいた」という話も聞いたことがあります。
中隊の生き残りが11人というから、きっと地獄を見てきたんでしょう。

以前三島大社まで連れて行った時、50年ぶりということで本当に懐かしそうでした。

小話一つ。
開戦の日。役所に勤めていた祖母は女性職員たちと
「勝てるわけないじゃないねぇ」などとお昼の雑談を楽しんでいたご様子。
そんな祖母は「グラマン(F6F)」の機銃掃射を受けた経験のせいか
飛行機はぜんぜん乗らず、先日はじめて「プロペラが無い飛行機がある」と知りました・・・。

63 名前:名無し三等兵[]投稿日:03/05/26 23:19 ID:G+l1lc7n
うちの母方の祖父は戦艦金剛の砲術担当で
ガダルカナル砲撃にも参加したそうだ。
で、金剛と書かれた写真や記念絵葉書とか
持ってるんだが、これがどう見ても榛名なんですわ…

70 名前:45[sage]投稿日:03/05/27 14:22 ID:???
母方のじーちゃんの弟が赤城乗り組みの一飛曹だったんだけど、
ミッドウェイで生き残った後一度も内地を踏まずにラバウルに送られて、
ガダルカナルの航空戦で戦死してしまったそうだ。
最後に戦地から送られてきた手紙、今でもじーちゃんの家の神棚に収められてるよ……

ちなみに、当のじーちゃんは国後で高射砲を撃ってたそうだ。
沖縄に送られる予定で釧路まで移動したら、
乗り換え予定の輸送船が二隻続けて潜水艦に撃沈されて、
三隻目の船を待ってる間に終戦になったとか。
「俺は船運がいい」って口癖みたいに言ってる。

71 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/05/27 14:26 ID:???
父方のじーさんは徴兵されるも体が弱く
舞鶴で事務員をしていたらしい。
鈴鹿に出張させられて、帰ってきた次の日に
鈴鹿が大空襲を受けたとか。

母方のじーさんは昭和天皇と同い年=戦中は40前後。
さすがに徴兵されなかったが、従軍記者として満州へ。
シベリア送りにされたが、どうにか帰ってこれた。
やっと家に帰った際、満州に行く前に作った末娘=私の母に
「おじさん、いつ帰るの?」と聞かれ
ものすごくヘコんだそうな。

91 名前:名無し三等兵[]投稿日:03/05/31 23:43 ID:YZ3lcDlo
バーさんの話なんだけど
「アメリカの飛行機はゆーっくり落ちてくるけど、
日本の飛行機はパーッとすぐ落ちちゃう。」って行ってたな。
B29のことなんだろうけど。一般人が見られるほどよく落ちたのかね。

あと、こんなことも言ってた
「防空壕に入ってると、プスプス焼夷弾の破片が刺さる音が聞こえる。」
結構怖いのかも。

95 名前:名無し三等兵[]投稿日:03/06/01 04:02 ID:Hn12u0Iz
前に別板でも書いたけど、うちの母親の話。
まだ小さかった母親をじいちゃんが抱っこしながら
「いよいよ大和が出る。これで日本は勝つぞ」
って言ってたらしい。
大戦中、大和はその存在を知られてなかったとか聞くけど、あれは間違いだね。

98 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/06/01 22:19 ID:???
>95
親戚のおじいさん(故人)が、輸送船の銃手やってて、
大きな戦艦とすれ違ったけど、戦後しばらくしてから
大和か武蔵だとわかった…てな話してました。

ちなみに、そのおじいさんの乗っていた輸送船は米軍機の空襲にあい、
直撃弾こそなかったものの、至近弾をもらいすぎて沈んだそうです。
「飛行機落とせたの?」ときいたら、
「さっぱり当たらんかった。」といっていました。

ついでに、そのおじいさんのいとこは夜間戦闘機月光の斜銃手だったそうですが、
出撃してもほんとに真っ暗でなにも(敵も味方も)わからんかったそうです。
あれではどうにもならんというようなことをおっしゃっていました。

103 名前:名無し三等兵[]投稿日:03/06/02 21:19 ID:wmcLdBJ1
玉音放送があった翌日には、近所の陸軍の飛行場に忍び込んで盗みをやっていたそう。

この間のイラクと状況は変わらないみたい。

106 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/06/02 21:47 ID:???
>>103
>玉音放送があった翌日には、
>近所の陸軍の飛行場に忍び込んで盗みをやっていたそう。

基本だろ!!
ウチのじいちやんは年食いすぎで戦争はいかなかったけど、
戦後の焼け野原でくず鉄拾い(電線とか)やってえらい羽振りが良かったらしい。
ただし、羽振りが良すぎて、通報されて、
場偉大な賠償金を負わされた。
が、それまで儲けたお金で一括で払ったんだって。
それ位、クズ鉄拾いは儲かったらしい。
母曰く、「同時で誰でもやっていたのに、ウチだけ摘発された!!」
と言っていた。
ママン・・・。

107 名前:名無し三等兵[age]投稿日:03/06/02 21:53 ID:???
親戚のじいさん(既に他界)は憲兵少尉、
メチャクチャ兵隊をぶん殴った事があるそうな。
不条理なことをしたと悔やんでいた。
その息子は現在陸上自衛隊の二尉。

別のじいさん(これまた他界)は海軍の爆撃機パイロットで
フィリピンで敵戦闘機の機銃弾を受け右腕を吹っ飛ばされた、
一緒に風呂に入り腕のない右肩をさすりながら
「戦争はやっちゃいかん」と諭された、非常に説得力があった。

109 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/06/02 22:29 ID:???
毋方のじーちゃん、右手の手首から先が無かった。
小さいときに聞いたら、「昔、戦場で敵が投げてきた
手榴弾投げ返そうとしてなぁ…」当時、意味は分から
なかったが、葬式の時戦友だった人がフィリピン戦で
味方を庇おうとした時の事だったそうな。

115 名前:名無し三等兵[ ]投稿日:03/06/03 11:28 ID:???
俺が生まれる前の話だが、5年前に死んだうちの爺さんは
戦争中に中国の村で略奪してきた鍋や釜を「戦利品だ」と言って家族に自慢したらしい。
当時極左過激派学生だった俺の親父は、
それを聞いて激怒しすごい親子喧嘩になったそうだ。

125 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/06/03 21:17 ID:???
漏れのじいさん、もうそろそろ90なんだけど戦時中は
飛行機の整備やってたんだって。
あまり詳しくは話してはくれないんだけど、これから特攻に出撃する
飛行兵が、笑顔で「今日も空がきれいだ」って飛び立ったんだって。
それが印象的だったらしくその話はよくしてくれた。
また別の日は明日出撃する飛行兵が基地の隅で泣いてるのを見かけたらしいよ。なんの言葉もかけられなかったって。
最近元気がなくなってきたようなんだけど、もっと話が聞きたいなあと思うね。

660 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/07/30 03:11 ID:???
昔、父達から聞いた話なんだけどウチの祖父は
戦闘機の特攻隊(当事18才位)だったそうな。
いざ出撃という時にお腹壊してトイレに行ってるウチに
終戦、となったらしいんだけど。
「自分だけが生き残った負い目があるから
お酒ばっか飲むんだろうね」と父達が言ってました。
>>125
の話を読んでたら当事の集合写真の若い隊員達の顔を
見たのを思い出して、何か無性に悲しくなりました。

139 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/06/04 22:44 ID:???
母方のじーちゃんは陸軍の戦闘機パイロット
中国戦線で呑龍の護衛をやって、部隊が南方に転進になるときに病気で内地に送還
回復後は二式複戦に乗って本土防空戦に参加、B-29一機撃墜不確実
終戦の数ヶ月前からは憲兵をやっていたそうな

照空灯に照らされたB-29に後下方から忍び寄って
斜め20ミリをエンジンに向かってぶっ放したら
火を吹いて高度を下げていったそうだ
危うくB-29と激突しそうになったので左急旋回で避けて降下して
見上げたらもうB-29は見えなくなっていたらしい

唯一じーちゃんから直接聞いた戦争の話
もうそのじーちゃんも他界してしまいました

148 名前:115[]投稿日:03/06/05 03:21 ID:Pb0gePrg
爺さんの話ではないのだが、
うちの親父の経営する会社の先代社長は陸軍中野学校出身で
戦時中は大陸で情報収集活動をしていたそうだ。
ある時陸軍の部隊に随伴して占領した町に入ったところ、
焦土作戦で町は廃墟と化していた。
現地調達を考えていたらしく部隊の食料は既に底を尽いていたのだが、
町にはもちろん食料など残されていない。
井戸水にも毒が入っている。
しかし唯一ぶどう畑にだけはたくさんのぶどうが実っており、
彼はそれから補給が来るまでの一ヶ月の間ひたすらぶどうだけを食べ続けたという。
当時の日本人にはぶどうなどそうそう口にできるものではなかったのだが、
最後には見るのも嫌になって終戦後もしばらくはぶどうが食べられなかったそうだ。

161 名前:リアル厨房[]投稿日:03/06/05 19:08 ID:d6ZgKMFT
俺の爺ちゃんはフィリピンにいったそうです。
バタバタ仲間がやられて
「ああ!もう全滅したか!」
っていうときはだいたい3分の1ぐらいしか死んでないんだそうです。
斥候にも出たそうですが生きた心地がしなかったとか。
「もうなぁ。死ぬかと思ったぞ」
って言いながら腰を浮かして屁をこいてた爺ちゃんがなつかすぃ。('A`)

176 名前:名無し三等兵[]投稿日:03/06/06 09:44 ID:odoL+DAI
俺の爺ちゃんの葬式の時に隣の爺ちゃんがいっていた話。
その爺ちゃんは駆逐姦だか水雷艇の魚雷係だったんだが、
武蔵にくっついてレイテに向かう途中、
このまま行ったらおれら絶対死ぬなー、と思った爺ちゃん達は、
みんなで一生懸命魚雷発射装置を壊した。
なんでも、魚雷を発射管に充填するやつが壊しやすくて、ほかは壊れなかった。
その甲斐あって、船は母港へユーターン、爺ちゃんは長生きできたが、そのまま武蔵に随伴した香具師らはあぼーん…
どこまで本当かは知らない。

178 名前:名無し三等兵[]投稿日:03/06/06 11:07 ID:6wj4mVWl
うちの曾じいちゃんの話。

どうも詳しい所属はわからないのだが、大陸に行っていたとのこと。
そこで案内として雇っていた中国人にある日「病気になったので薬をくれ」
と言われたらしいが、もちろんそんなものは持っていない
困ったじいちゃんは持っていた歯磨き粉をその中国人に渡したそうだ。
後日、そいつは「お前のおかげで治った、ありがとう」
と言って食料をたくさん持ってきたそうな

曾じいさんいわく「シナ人、ありゃー丈夫な奴らだ」とのこと。

187 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/06/06 19:03 ID:???
うちのじいちゃんは岐阜の山奥で工場に勤めてたみたいです。
技術職だったんで戦争に行かなくてすんだとか。
終戦間近は空爆が激しくで焼けた馬とか食ったそうな。
でもって、終戦後は資料処分で大変だったらしい。
なんか、アメリカまで行って帰ってこれる爆撃機の図面を引いたらしい。
燃やしたらいいけど・・・

もう死んじゃって詳しいことは聞けないのが残念。

191 名前:名無し三等兵[]投稿日:03/06/06 19:46 ID:Z1QZGcIe
死んだじいちゃんは満州で官吏(保健関係)をやっていた
昭和20年7月に獣医科見習士官として入隊 が
すぐにソ連軍が攻めてきた 
獣医科なのに人員不足で歩兵中隊を指揮 手榴弾を喰らって負傷した
収容所に行っても、獣医でしかも将校だったので他より扱いがずいぶんよかったらしい
しかし家宝の刀を没収され、しかも帰国途上に妻子全員を失った
このことを話すじいちゃんはいつも涙ぐんでいた

208 名前:名無し三等兵[]投稿日:03/06/06 20:37 ID:PSg+1onX
じいさんは海軍の主計にいた。
国内の鎮守府で物資の調達がかり。
おかげで、戦争が終わるまで、自分の金で買い物をしたことがなかったそうだ。ばーさんの買い物も常に業者がはらっていたとのこと。
敗戦になって、物資をだいぶ自宅に運び込んだようだ。
しかし、戦後になって業者の態度ががらりと変わってしまい、生活は大変だったらしい。

220 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/06/06 21:42 ID:???
あっ、今思い出した。
これは戦争のはじまる前の話だけど、せっかくなので書かせてください。

これって、半分笑い話なんだけど、
じいさん、ばあさんが満州に行くときに、
同じ村の満州開拓団の全員が菩提寺に髪の毛を残していったそうです。
こんなこと、本人達はずーっと忘れていたのですが、
お寺さんが掃除した時にこの開拓団の髪の毛が出てきて、
遺族に配られたそうです。
その中に、じいさん・ばあさんの髪の毛もあったそうです。

預けてから、50年近く経っていた時でしたが、じいさんもボケてなくて、
ばあさんも元気な状態だったので、笑い話で済みました。
ちなみに、ばあちゃんは今も元気です。じいさんは年で大往生でした。

232 名前:名無し三等兵[age]投稿日:03/06/07 10:05 ID:???
爺ちゃん(故)は中島飛行場で働いていたそうだ
東京か兵庫かどちらかは聞いていないが
恐らく東京で働いていたと思われる
そんなある日、爺ちゃんはうっかり機械に指一本挟んでしまって
半分程無くなった(まぁ、指一本で済んだので安いものだろう)
爺ちゃんが何故、徴兵されなかったのは謎だ
体力が無かったのか、何か病気か・・また、よほど機械整備の評価が良かったのか・・
手先も器用で、良く自作の戦闘機や船とか作ってた
生きていたら、戦闘機とかに、ついてイロイロ話し合ってみたかったのに・・
残念です。

235 名前: [sage]投稿日:03/06/07 11:14 ID:???
>>232
>>爺ちゃんが何故、徴兵されなかったのは謎だ

うちの父方のGさんですが、かなりの年齢なのに赤紙がきた。
町の人達に送られて入営したものの、身体検査でテイ種不合格…
小柄で痩せすぎで、年くってたからというのが理由らしい。
つーか赤紙出す前にわからないのかって話しだが。

B-ちゃん曰く「恥ずかしくってはずかしくって、こっそり夜に家に帰ってきてもらった」そうな。

で、その漆職人のG-さんは戦時下の人手不足を補うべく、刑務所の刑務官をやってたそうな。

236 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/06/07 14:10 ID:???
 父方の曾祖父は身長「六尺」、父は170cm台、漏れも185cmという
ほぼ甲種合格の家系だというのに、何故か祖父だけは150cm弱で乙種?合格。
輜重兵として満州事変に行った。
 馬に乗って移動していたところ、その馬が地雷を踏んでしまい、両脇にいた
部下ともども即死。自分だけ馬の胴体の陰になり無傷だったといい、(祖母の
話に拠れば)ずっとそれを苦にしていた。
 最終階級は伍長。

 その祖父が10年前に死んだあと遺品の整理をしていたら、戦地から家族に
宛てた絵葉書が出てきた。その本文が
「○○子、○○(子供の名前)元氣ニ シテイマスカ。
 オ父サンハ マイニチ元氣デ シナノ兵タイヲ 殺シテイマス」
 もちろん上官の検閲印付きだが、そこに名前を書かれた伯母たちは、
「こんな手紙を小さい子供に出すのが変じゃない時代だったんだよネェ」と、
茶飲み話にケラケラ笑ってました。

241 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/06/07 17:15 ID:???
戦場に行く汽車に乗ったが、途中で汽車を仲間と共に間違えて戻ってきた。
そしてその後すぐ終戦。
おかげで今の私の姿があります。
ありがとう。

255 名前:名無し三等兵[]投稿日:03/06/08 01:05 ID:RJdeyIs2

サイパンにて
飛行場整備。
空襲され防空壕に非難。
苦しそうにしている人がいたので
場所を代わってあげた直後、(おそらく爆撃により)
今までいた位置が崩れる。代わった人はもちろん死亡
人がつぶれる音というやつを聞いたそうである。

脚を負傷、長野の陸軍病院にて終戦。

※小学校で平和教育(南京とかの生々しいやつ)のあと
俺は祖父のこと嫌ってしまった
・・・中国で悪いことをできるわけでもないのに・・。

293 名前:           []投稿日:03/06/09 22:40 ID:GrMA7bxl
ウチのじいさんは
徴兵検査で身長が170cm
だから甲種合格だったが
視力が0.6程度だった為射撃が
水準以下w。よって第一補充兵となる。
昭和19年1月佐倉連隊で北シナへいく、都内だがw
初年兵だったため往復ビンタは300回程度食らうw
昭和20年勤めていた日本無線三鷹工場の要請で
帰国。原隊復帰する前に正月だからという理由で
自宅に帰るw。自宅で飯食った後、武装返還。
受付の人に、脱走だぞヲイ
という突っ込みをうけ下関から40時間かかった
と嘘をついて難を逃れる。大正五年生まれ88歳
存命です。

333 名前:名無し三等兵[age]投稿日:03/06/14 12:56 ID:???
俺は沖縄が大好きで何度も観光旅行に行きます
仲良くなった年配のタクシー運転手さんに戦争
の体験を聞かせてもらったけど、印象的だったのは
「戦争は怖かったけど兵隊さんは皆優しかった」
と諭すようにしみじみ語ってた事です。当時
小学校4年生の運転手さんは兵隊が珍しく頻繁に兵舎
をこっそり覗きに行ってたらしい、ある日兵隊に
見つかり怒られるのかと思ったら「坊主!男だったら
コソコソ見るな!堂々と見ろ!」と兵舎に招いてくれて
夕食をご馳走になった、無骨な顔に囲まれて怖かったそうだが
残さず食べて「坊主もっと食え!」と褒められたそうだ
「また来い」、「勉強しろよ」、「父ちゃん母ちゃんを大事にしろよ」
と頭を撫でられて乾パンや金平糖をお土産にもらい帰ってきたそうだ
金平糖をかじりながらブラブラ夜道を歩いて帰ったあの日の事を
「金平糖がおいしかった事を今でも思い出すねぇ」って笑っておられた
「後で父ちゃんに大目玉を喰らった」そうだ。
また来年もお元気であればあの運転手さんに会いにいこうと思ってます。

340 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/06/14 18:49 ID:???
うちのじいさんは南の島の方へ(何処だかは聞いてたけど忘れた)行って終戦間際に熱病にかかったそうです。
で、引き上げの際に病気で帰れず、帰ってきたのは自分の葬式も終わって墓も立った後だったそうです。
つうか一緒に墓参りに行くと墓に爺さんの名前と命日(戦時中の適当な日にちらしい)が彫ってあって。
見るたびに本人(存命ですよ)苦笑してます。

349 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/06/16 01:27 ID:???
>>340
生きて帰ってこれてよかったね。うちの大叔父は、ニューギニア
からの復員船のなかで衰弱死しますたです。

350 名前:名無し三等兵[]投稿日:03/06/16 13:16 ID:B5oiAytu
私の祖父(すでに亡くなっている)は戦争末期頃に南方戦線に行くことになったそうだ。
しかし、その移送の途中に米軍に攻撃されて船は沈没。
祖父は何とか木片をつかみ、台湾やら中国に漂着したそうだ。
そこで飛行機の整備兵をやってるうちに終戦を迎えた。

その船に乗って生き残っていたのは10人ぐらいだったらしい。
船が撃沈しなくても南方に行く予定だったんだし、
なんと言う奇跡なんだろうと子供心に残りました。

353 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/06/16 15:54 ID:???
私の祖父ではないのだが、一回だけの取引をしたある個人商店主が凄かった。
初見で「お元気でつねぇ」といったら、米寿超のご高齢で現役。
MT車を駆りながら、異常にテンションが高い。
車内でなぜか戦争の話となったら、
爺「わたしゃねぇ!インパール逝ったんですよっ」
漏「えええ よく帰れましたねぇ」
爺「そりゃねぇ、わたしゃ○○町(県内でも有数の山奥の町)のねぇ、
 炭焼きの家なんですよっ。いってみりゃ山岳民族ですから!
 だから生き残ったんですねぇっ」(←この通りのテンションの高さ)
漏「大変だったでしょ」
爺「大変でしたねぇっ、町の出身の人はだいたい死んじゃったからっ!」
時間が短かったので、これくらいしか聞けなかったけれど、
『八甲田山死の彷徨』でも山奥の徴兵が生き残ったのを思い出しますた。

356 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/06/16 23:51 ID:???
俺のじいさんではないが。

バイト先の現場にいた鉄骨か鉄筋の溶接の親方。
80過ぎてさすがに現場は息子に任せていたが、元気そのもの。
南方でインパール?作戦に参加して中隊で7人しか生き残らなかったそうな。
その話を始めると、周りの職人が「また始まった」と笑ってた。

それで、印象に残ってるのは戦場の話ではなくて・・・

「(鉄筋を眺めながら)どんどん入れる鉄筋が多くなってくるなあ・・・おいボウズ(俺)、なんでこんなに鉄筋入れるか知ってるか?」

俺:「え?やっぱり地震とか・・・」

「馬鹿、違うよ・・・」(急に声を潜めて)

(てっきり業界の裏話とか癒着とかそんな話かなあなんて思ってたら)

「前の戦争じゃ、鉄がなくて負けたんだ、だから今のうちに建物に鉄をいっぱい仕込んでんだよ・・」


じいさん、戦争に負けたのは鉄が無かったからじゃないよ。
それにビルから鉄筋を引っこ抜いて戦車を作るような戦争をもう一回したいのか。

と言いたくなったが、きっとじいさん一流のジョークだったのだろう・・・

397 名前:名無し三等兵[]投稿日:03/06/20 19:54 ID:3tyzOLPY
私の祖父は、得撫島守備隊で少尉だったそうです。
終戦によりソ連軍進駐、局地的停戦条約(?)締結に
立ち会ったとか。内容は
「日本軍は武装解除の後本国帰還を許す。ただし
一部の捕虜は免れない」とかで、祖父の小隊が
得撫に残された。
貧乏籤を引いたと思ったらしいが、後に知ったところでは
帰国したはずの方々は「シベリア送り」だったらしい。。。
祖父は得撫から樺太へ。S23帰国。
その後、GHQから呼び出しを受け、何事かと思ったら
情報提供を求められたらしい。

398 名前:まりも[]投稿日:03/06/21 13:46 ID:dtJYQlVU
うちの爺さん、満州で股間を撃たれて帰国。 ケツの肉を引っ張ってきて縫い合わせたらしく、凄い傷跡。

428 名前:名無し三等兵[]投稿日:03/06/25 11:08 ID:4EfCbeT7
うちのジジイはアメリカ移民の子供。戦争はじまる前に帰ってきて何年か
日本で過ごした後、徴兵されて満州へ。

配属先の中隊長が知り合いで、”お前なにがやりたい?”と聞かれて、”
わしゃ、訓練がないところがええの。”と答えたツワモノです。

軍隊ではトラック運転したりご飯作ったりしてたらしい(w

”兵隊が米ばっか喰う、米が足りないと恨まれるから、軍曹が倉庫の番
してる奴と話して、気を引いてる隙に、他所の隊の米まで積んでくる”
とか、
”カレー粉が余って仕方がなかったけど、捨てると怒られるので、隠れて
捨ててた。”
とか、
”戦争には行ったけど、鉄砲一回も撃った事ない。”
とか、勇ましい話は一切無しでした。

アメリカ時代の写真を見る限り、結構な暮らしだったみたいなんで、鬼畜
米英とか言われても、ハァ?とかそんな感じだった見たいでつ。

ちなみに寝たきりになってからは、しきりに”アメリカに行きたいなあ。”
と言いながら、他界。棺おけには合衆国の地図を入れて焼きました。

450 名前:428[sage]投稿日:03/06/26 09:34 ID:???
今日、大阪環状線で血色はいいけど年はかなりいってそうなお年寄りが
乗ってきて、出入り口の直ぐ近くに立っておられました。

座っていた若い女の子が”次降りますからどうぞ。”と席をゆずろうとした
ら、

”私も次に降りますから。”と断り、そのままその女の子に話し掛けておら
れました。

聞くとはなしに聞いてたら、”おじいちゃん、今年86だけど、戦争でガダル
カナルから生きて帰ってくるくらいだから、丈夫なんだ、お嬢ちゃんガダル
カナルって知ってるかい?、1000人行って、一人しか帰ってこなかった
んだよ”と・・・。

まあ当然そうきかれたお嬢さんはガダルカナルが何処にあるかも知らな
かったのですが、”知りません。”と答えず、”勉強しておきます。”と答え
てました。

もう10年もしたら、戦争に行った人たちはほんとに居なくなるなと思った
次第。

452 名前:東雲 ◆m6tridVkuU [sage]投稿日:03/06/27 17:37 ID:???
伯父はビルマ戦線でした。
志願兵だったため、早くから戦線に出ていたそうです。
補給が来なくてきつかったと言ってました。

食料を調達するのが命がけだった、と、酒を飲む
度によく言います。明け方にジャングルをコソーリ
移動して、落ちている果物を拾い集めたそうです。

倒した英兵がいい物食ってるのが皆に解り、
嫉妬も絡んで余計に勇猛になったそうです。
戦闘については余り話したがらないので、
話題は食べ物ばっかり。
完熟マンゴーはうまかっただの、英兵の非常食は
ビクーリするほどうまかった、など。

ただ、戦友がいっぱい死んだ、あんな思いは
もう勘弁だな、と最後は呟くようにいいます。
今春、春の叙勲の栄誉に輝いた時に靖国神社に
一緒に行きました。伯父は今まで戦友に逢わせる顔が
無いと、上京しても決して行きませんでした。
しかし、もう80を超え、伯父の中で何かが
変わったのかもしれません。

戦友の名を探し、見つける度に何かを嬉しそうに
呟いていました。一緒に行った漏れはなぜか
涙がこぼれました。

長文スマソ

455 名前:名無し三等兵[sage]投稿日:03/06/28 00:31 ID:???
よく死ぬ間際には「天皇陛下万歳」ではなくて「おかあさーん」と言って
死んでいったと言われますが、祖父の体験ではそうともいえないらしいです。
いくら死にそう、死ぬからといってもやはり「天皇陛下万歳」と言って死ん
でいったそうです。名誉ある戦死だったと伝えてもらうにはそう言いながら
死ぬことが必要だったそうです。


関連エントリー:
体験者に聞く太平洋戦争(第二次世界大戦)
あなたのおじい様の戦争体験を教えて[その2]
     
  1. 投稿日:2008/08/01 09:10
  2. 私の大叔父は特攻兵で、僅か16歳で戦死しました。確か戦死した最も年齢の若い特攻兵です。大叔父の母にあてた遺書を読んだことがありましたが、一切弱音は書かれていませんでした。弟に母を任せ、お国の為に命を散らした大叔父は祖母にとって何時までも偉大な軍人です。
  3. 投稿日:2008/08/01 09:57
  4. 母方の祖父、もうずいぶん前に亡くなったけど、日本海海戦に参加した事があるって聞いたな。
    どの軍艦に乗り組んでたかは聞き忘れたけど
  5. 投稿日:2008/08/01 10:04
  6. 俺のひーじーちゃんは、敵機の機銃掃射から走って逃げ切ったそうで。
    隣にいた友人は、少しばかり足が遅くてやられてしまったとか・・・

    ちなみに戦後は、「戦争に行って来る」といって仕事に行ってたそうな。
    そろそろ100ですが、まだまだ元気です。
  7. 投稿日:2008/08/01 10:23
  8. 最近になって、こういう話を聞いておきたいと思ったけど、もうおじいちゃんいない。
    おばあちゃんにだけでも聞いておかないとな…と思う。
  9. 投稿日:2008/08/01 13:01
  10. 俺の曽祖父さんは野戦病院から退院した瞬間撃ち殺されたそうな。かわいそうに。
    ・・・今年もあの日が近づいてきたな。
  11. 投稿日:2008/08/01 13:09
  12. 俺のじいちゃんはかなり強運だった
    何かの戦艦の乗組員になって出航した3日後に
    胸膜炎みたいな病気(当時は不治の病)にかかって最寄の港に下ろされた
    数日後その戦艦は撃沈され全滅
    不治の病のはずの病気を3ヶ月で治して零戦のパイロットを志願するも
    身長が足りず試験落とされる
  13. 投稿日:2008/08/01 13:36
  14. 母方の祖父は満州で軍医だった
    相当なエリートだったらしくあの時代にしては相当裕福な暮らしをしてたとか
    実家には古ぼけた医師免許状が飾ってある
  15. 投稿日:2008/08/01 15:09
  16. 俺の父方の曽祖父は鍛冶屋の家系で今も祖父が小さい鉄工所みたいのやってる。その家に長さ30cmくらいの小刀がある。生前の曽祖父が戦時中に持っていかれるのが嫌だったから、先祖伝来の刀を溶かして自分で小刀に打ち直したものらしい。曽祖父は料理が好きでよく包丁がわりに使ってた。

    母方の曽祖父は軍医でシベリアに抑留されてたらしい。
    その間ずっと蟹ばっかり食わされてたから蟹が大嫌いになったと言ってたw
  17. 投稿日:2008/08/01 15:17
  18. 戦争は悲しいな・・・
  19. 投稿日:2008/08/01 16:07
  20. おれの爺さん戦後生まれだわ・・・
    ひい爺さんは故人。

    こういうのを聞いてみたいな、と不謹慎なことを考えてしまう。
  21. 投稿日:2008/08/01 16:36
  22. うちのひいジイサンは日露戦争に参加していたようだ。
    祖父さんはシベリア送り。
  23. 投稿日:2008/08/01 17:07
  24. うちのじいさんは年だったのと7人の子供+母親死別で行かなかったらしい。
    何か役に、ということで消防隊員になったそうな。
    消防隊だって十分命がけなのにな・・・
  25. 投稿日:2008/08/01 17:59
  26. 爺ちゃんの形見の日本刀が仏壇の所にある。
    時代劇で刀で切られて腕が飛んだり、一切りで倒したりするシーンを見るたび、あんな簡単に人の体は切れるもんじゃない・・・とよく呟いていた。
  27. 投稿日:2008/08/01 18:52
  28. 三年前に亡くなったじいちゃん。享年93。
    海軍将校だったそうだが横浜に滞在中に若き昭和天皇が部屋に来て「おい、カレー食べに行くぞ」と言って
    ご一緒したらしいがさすがに嘘だと思ってる^^;
    でも天皇からの勲章も本物で腕には撃たれた時の弾が
    残っていて昔はよく触らせてもらった。
    今でも大好きで誇りに想うじいちゃん。
  29. 投稿日:2008/08/01 19:01
  30. うちのじいちゃんはシベリア抑留で腐った馬鈴薯を食ってた
  31. 投稿日:2008/08/01 19:09
  32. もう、本当に…なんていっていいか、切ない。
    こういう話を見る度に
    戦争は醜く憎いものだけど、俺達はこの人達を否定しちゃいけないと思うわ。
    辛いこと(人によって感じ方は変わるが)を必要とされて生きてきたんだもんな。
    戦争に行った人だけじゃなくて、ね。
  33. 投稿日:2008/08/01 19:16
  34. 私のおばーちゃんは7人も男兄弟がいたそうですが、みんな戦死してしまったと言っていました。

    おばあちゃんは長崎の佐世保出身です。
    核爆弾が投下されたのも見たと言ってました。
    幸いおばあちゃんは山の中(投下された場所と山1つ隔てられたところ?)にいたので、被害はうけなかったらしいです。
    「山の向こうの空が一面真っ赤だった」
    と言ってました。
  35. 投稿日:2008/08/01 20:22
  36. 祖父は父方も母方も水兵だったらしい。土地柄もあるかも。
    海を巡回中に潜水艦に遭遇して艦体を穴だらけにされたとか・・・
    けっこう、うる覚え。
  37. 投稿日:2008/08/01 21:43
  38. >>1013
    いや、本物の日本刀凄いから。
    脂は付くけど2、3人斬った程度で刃こぼれするとか
    鉄が無い時代に形だけ真似たものと本物比べて
    もらっちゃ困る。時代劇のが正解だよ。
  39. 投稿日:2008/08/01 22:21
  40. 生きてたのに帰りの船で衰弱死とか悲しすぎる・・・
  41. 投稿日:2008/08/01 23:03
  42. うちのじーちゃんは暁部隊(?)っていう補給部隊に配属され、フィリピンらへんにいてたらしい。
    往生する数年前、突然、興味がわいて色々と尋ねたんだけど、そのときのメモを引越しのゴタゴタで失くしたことを今でも悔やんでいる。
  43. 投稿日:2008/08/01 23:06
  44. たしか、父方の祖父がシベリアに行ってて、無事帰国したっていってた。そのとき、3人しか帰ってこれなかったとか言ってたけど、ネット見ると3人にしてはたくさん居すぎだろjk。
    ちなみに、母方の祖母は原爆落ちたあとに広島市に親戚の見舞いで入ったそうです
  45. 投稿日:2008/08/01 23:18
  46. なんか読んでたら泣けてきた…
    じいちゃん…ばあちゃんありがとう…
  47. 投稿日:2008/08/02 02:50
  48. 178のじい様と俺のじい様の体験談が同じで吃驚だ、もしかしたら現地での知り合いだったのかな、
    あと、俺のじいさまは中国の現地の人たちと野球してたらしい。
  49. 投稿日:2008/08/02 08:25
  50. うちのじいちゃんはボルネオにいたんだけど、銃弾がで右手の中指をかすって爪が取れたんだって
    慌ててつけようとしたら爪を上下逆さにつけちゃって(取れたばかりは傷でも何でも簡単にくっつくらしい)
    これじゃ格好悪い・・って諦めて爪を捨てたらしい。

    今でも中指の爪はなくてつるつるです。

    あと、捕虜の時アメリカ軍の人によくチョコ貰ってたらしくて「あの時のチョコは最高に美味しかった」って良く言ってる。
    今でもチョコは大好物だけど、何か物足りなさそう。

    じいちゃんは、アメリカ軍人はいい人だったぞって言ってるけど、「爪は・・・許せん」って
  51. 投稿日:2008/08/02 11:57
  52. 俺のじいちゃんは軍人じゃなくて警察官だった。で、日韓併合時代は
    半島に赴任してて政治犯の取り締まりをやってたらしい。
    当然のごとくターゲットのメインは金日成。終戦後は警察官辞めて
    百姓やってたけどその前歴のせいか近所で揉め事があるとみんな
    警察じゃなくじいちゃんの方に相談しに来てた。
  53. 投稿日:2008/08/02 12:21
  54. 父方の祖父は巡洋艦阿武隈の機関士のひとりだった。
    ハワイのことは聞いていないが、キスカの撤収には参加したらしい。
    ミンダナオ沖で沈んだ。

    血縁者ではないが、中学の時の教師が満州→シベリアコースをたどった爺さん。
    「敗戦の時に現地人は暴徒化したが、罵倒しながらでも助けてくれる人もいた」
    「ロシア人は、個人としては親切でいい人だったが、組織としてはどんなむごいことも平気でやった」
    「君らも、時代や組織に飲み込まれて自分を見失うな。あとで一生悔やむ」
    と言っていた。
  55. 投稿日:2008/08/02 13:01
  56. 亡くなった祖父の話ですが、戦争中はロシアのスパイをしていたそうです。当時としては珍しく高校まで卒業していた祖父は、語学力を買われてロシア語の特訓を1年間受けたそうです。
    その間は完全に外海との交流を絶たれて、刑務所みたいな所で黙黙とロシア語を勉強していたと言っていました。
    子供の頃に祖父とお風呂に入った時に、腕に変な傷があるのを見て、「これどうしたの?」と聞いたら、終戦後にロシアから日本へと帰ってくる際に、撃たれた傷だと離してくれました。
    祖父が他界後に祖母にその話をしたところ、祖父は対ロシア対策の為に日本が送り込んだ諜報員で、部下(祖父は将校だったらしい)と共にロシアに渡って、情報収集を主な任務としていた。終戦後に日本に帰還する際に、スパイである事が露呈してしまい、5人の部下と共にロシアから逃げる際に、追撃してきたロシア軍の小部隊の銃撃から部下を庇って撃たれた傷だそうです。
    撃たれた際に、部下に俺にかまわず5人で逃げろと言ったにも関わらず、祖父を慕っていた部下達は、祖父を置いて逃げる事が出来なかったらしく、祖父に救急措置を施した跡にゲリラ戦のような戦闘方法で、追跡してきたロシアの小隊と戦闘を行い、4名の部下が戦死するも敵を撃退する事が出来たそうで、生き残った部下に肩を借りながら山中を越えて、連絡所(日本軍との情報交換所)まで辿り着いて助かったと話してくれました。


  57. 投稿日:2008/08/02 14:50
  58. 母親の父親は前線で暗号解読の通信士してた
    途中爆撃で怪我をしたけどなんとか命からがら帰ってこれたみたい
    あと母親の叔父は人間魚雷に乗ったとか聞いたな
  59. 投稿日:2008/08/02 22:12
  60. 米14のじいちゃんは>>23の作ったカレーを天皇陛下と一緒に食べたのか
  61. 投稿日:2008/08/02 23:15
  62. 知り合いに宇垣さんを乗せて特攻したという中津留さんの親戚の人が居た。
    その話を軽く振っただけで、かなり嫌な顔をされた。

    色々あったのだろう…
  63. 投稿日:2008/08/03 01:58
  64. 米1028
    凄絶な話で立派なお祖父さんだけど、
    言い回しに注意したほうがいいよ。

    >戦争中はロシアのスパイをしていたそうです
    こう書くと、「ロシアのためにスパイとして働いた」としか取れないから。
    「ロシアでスパイ活動をしていた」とか
    「対ロシアのスパイとして働いた」とか言わないと。
  65. 投稿日:2008/08/06 00:04
  66. うちのじいちゃんは飛行機乗りに憧れてて、実際にそれで出撃することになったらしいが、出撃日になる前に戦争が終わったそうな。

    ばあちゃんは満州だったか北京だったかにいて、父親が技術者だったらしく満州鉄道の開発に携わっていたとかなんとか…。(ちょっと曖昧)
    敗戦後、日本へ帰る際に使用人として使っていた中国人らに「帰らないでくれ」と懇願されたそうな。ただ使用人をぞんざいに扱っていた家は襲撃されて金品を強奪されていたみたい。
  67. 投稿日:2008/08/06 02:37
  68. 家の爺ちゃんは満州に行ってた。戦車に乗っていたらしい。
    「戦争にもし勝っていたら、サーベルを貰えたのに・・・」と、お酒を飲んだときによく言う。
    教師してる叔母さんが爺ちゃんのサーベル話を「教育が〜」って片付けるからアレなんだけど、アルツハイマーのせいで無限ループしても良いから爺ちゃんの話を聞きたいのになぁ・・・。
  69. 投稿日:2008/08/06 04:10
  70. 太平洋戦争は戦後のGHQがつけた名称。

    本当の戦争名は大東亜戦争
  71. 投稿日:2008/08/09 03:00
  72. 父方のじーちゃんはイタリア軍並のヘタレで、仮病して検査を回避したらしい。

    母方のじーちゃんは、かなりのインテリで鉄道関係の技術佐官だったらしい。満鉄とか行って、途中で内地に。
    戦犯になるかどうかギリギリで、直属の上官は処分を受けたそうな。
    で、数十年後、その大佐とかだったものすごく人間的にも立派だったらしい上官が、年下の雇い主にどなられて清掃員か何かの下働きをしていたのを偶然見てしまい、戦時中よりきつかったとのこと。
    あと、戦死したわけでもないのに偽造されて、どさくさにまぎれて持ってた財産とかすべて親戚に分捕られたそうだ。
    そんなじーちゃん曰く、戦っていた相手より身内の日本人が怖かったとのこと。






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