体験者に聞く太平洋戦争(第二次世界大戦)    このエントリーを含むはてなブックマーク

引用元:世界史板「体験者に聞く太平洋戦争(第二次世界大戦)」
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1045828221/

1 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/02/21 20:50 20080410syus.jpg
幸いなことに体験者の人々は生きておられるので、
今のうちにいろんな話を聞いておいたほうがいいと思うのですよ
いいとか悪いとか善悪論ではなくて
当時の雰囲気をききたい
戦争に出た人でも銃後の守りについた人でもかまいません。
そんな人たちに聞いた情報を交換しませんか?

4 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:03/02/21 22:57
シベリア帰りのうちのじいちゃんは戦争については
何も言いたがらなかったから僕も聞けなかった
じいちゃんはもうしんでしまっていないんだけど
僕が覚えているのはいつかテレビかなんかを見てたときに
(多分ソ連崩壊の頃だったと思う)
いつもは温厚なじいちゃんがはき捨てるようにいった一言
「ロスケは嘘つきだ」
・・・あの時少しでも話を聞いておけばよかった

16 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/02/21 23:54
うちのじいちゃん、田舎者なんだけど、大正デモクラシー世代だから
どうも今の民主教育みたいな影響があるんだよね。兵役を務めたはず
なんだけど、「天皇陛下万歳なんて言って氏んだ奴はほとんどいない」
とか「皆、おかあさんと言って死んでいった」とか常々言ってました。

近所のおじいさんに、赤紙が来たけど(1945年の春)。現住所から、か
なり離れた場所にいるし、都会は皆空襲で焼け野原…。このまま逃げ
ても大丈夫だろうと、無視を決め込んだ強者もいました(w


17 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/02/22 00:03
母方の祖父は、消防署勤務だったため徴兵免除だった。
伯父(父の兄)は、南方(ガタルカナル付近)で戦死。

父は、中学校の校庭で銃剣道の練習をしている最中に
玉音放送を聞いたそうな。
放送を聞いた後は、もうこれで(銃剣道の)練習をしなくて済む、
と思ってホッとしたそうな。練習があんまり好きじゃなかったらしい。
また、大きくなったら海軍に行きたかったそうな。セーラー服に憧れたらしい。

18 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:03/02/22 00:04
うちの祖父は台湾に通信兵として行った。
戦争のことは知らなくても良いことだと語りたがらなかった。
聞いたのは、空襲時にすぐ後ろにいた同僚が機銃掃射で死んだ話のみ。

曾祖母は蒸し器を国に徴収され、
蒸しパンが作れなくなったと怒っていたそうです。
その蒸し器は、飛行機になったのか戦艦になったのか・・・

21 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/02/22 00:16
うちのじいさんは補給部隊として蘭印(インドネシア)に行ったそうだ。
そのときのことをまるで海外旅行かキャンプに行ったかのように楽し
そうに話していた。オランダ人の置いていった自動車を乗り回して上
官にぶん殴られただの、捕虜とトランプで遊んだだの、現地の人の井
戸掘りを手伝っただの、本当にてめえ戦争に行ってきたんかいと突っ
込みいれたくなるほどだった。

23 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/02/22 00:24
21続き
ちなみに、連合国の軍隊の特徴をまとめると、
アメリカ・・・・・・相当にやんちゃなイメージがあったそうだ。
イギリス・・・・・・騎士道邁進しているやつが結構いたらしい。
オランダ・・・・・・ある陣地を日本軍が攻撃しているとき、防
衛側の蘭軍はめちゃめちゃ弾を打ってきたらしい(って言う
か狙ってすらいなかったそうな)が、しばらくすると撃って
こなくなったんだと。何か次の攻撃の準備でもしとるんかい
なと思って警戒していたら、白旗が揚がったんだそうな。
弾が切れたからだったらしい。

25 名前:銀行員[]投稿日:03/02/22 00:37
戦争そのものについてのエピソードは、
掃討戦をしていたとき思い輜重を担いで延々と歩かされたこと。
北支は、禿山ばかりだったこと。
夜間とかに周りから狼煙があがるのが、実に気味が悪かったこと。
上官から体罰の類は受けなかったこと。
日本軍が到着した際、ゲリラの拠点はもぬけの殻であることが多かったこと。
その際、拠点は焼き払ったこと。
敗戦後、捕虜収容所に入れられたこと。
そこでの生活は、1日1食で何もやることがないので、退屈と空腹で大変だったこと。
また、通訳に使っていた朝鮮人軍属が、その収容所で祖父の上官を
”おまえ等みたいな敗戦国民じゃないぞ”とかいって暴行を振るったこと。
等です。

29 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/02/22 01:58
恩師に、中学を卒業するとき、会いに行った。
二時間くらい話したんだが、途中でなぜだか戦争の話になって…
その先生は旧帝大出身で、戦時中は大陸で騎兵の偵察隊をやっていたらしい。
話の断片から推理するに、恐らくは士官だったのだろうと思う。
部下の性欲処理、が一番頭を悩ました問題だったらしい。
だから、村落等に偵察に入る前に、必ず「お前ら一発抜いていけ」と指令を出したんだそうだ。
「負けた戦争だから、子供たちには話したくない。はじめて話した」と言っていた。

当時、70過ぎてたその先生は、英語もネイティブ並で、
BASICでプログラムを組むのが趣味というなんともすごい人。

今はもう亡くなったけれど、あのとき、話をきけてほんとうによかった。

30 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/02/22 01:58
知人の父親という人がこんな話をしていた。
彼は軍属ではなかったが陸軍機の整備をしていた。
軍属へ入ることを希望したけれど
「それならお前、南方にいかにゃならんぞ」
と言われ、止めてしまったとか。
そんな彼、こんな話をしていた。

戦闘機を別の基地へ回送することになったのだが、
搭乗したパイロットが驚いた。計器が殆どないのだ。
「燃料計は?」「着けるまでの燃料は積んであるからいらんだろ」
「コンパスは?」「周りの景色を見ればわかるだろ」
「油圧計は?」「無理なことしなけりゃ大丈夫。いつも乗っているだろうが」
ってなわけで、パイロットは渋々飛んでいきましたとさ。

いや陸軍って怖い所です(by 松本零士)

31 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/02/22 02:13
これは私の父の話。
近くの海軍の飛行場で勤労奉仕をしていたそうです。
どういうものかというと、掩退壕(飛行機用の防空壕のこと)作りや
滑走路の穴凹埋めです。敵機が来たら退避、去っていったら再び
作業と、その繰り返しだったそうです。

「飛行場には紙や竹で作った張りぼての飛行機を置いててね、
敵さんに弾を使わせようとしていたんだろうけれど、敵さんも承知
だったらしく、見向きもせんかったよ」

と言って笑っていました。

44 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/02/22 20:24
うちの祖父母は親戚に農家が多かったとかで、親戚から送られてくる
食料が多く、食い物がなくなった末期でも丸々と太ってたそうな(w
ただ近所の子供の中にはお湯に雑草浮かべた食事を取ってる子がいたらしい。

出征はしなかったらしいので
戦争体験っつーと空襲で死に掛けた話ばかり聞かされます。
(当時から東京在住)

空襲の最中は瓦屋根の家のそばは危ない
(瓦が爆風で舞い上がって散乱する、当たるとそれだけで死ねるらしい。)
布団や戸板を被るのはだめ
(爆風で吹き飛ばされやすくなる上に火の粉で引火する。)
食べ物は他人から見える所に置いちゃだめ
(すぐに盗まれる)

などなど。

57 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:03/02/23 06:26
祖父は若い頃は満州で馬に乗っていたが、戦時中は白紙召集で工場で働いてたそうな。
爆撃のあと、戻ってみると電線に死体がブラ下がっていたという話を散々聞かされた。
「(昭和)天皇は戦後すぐに責任を取るべきだった」と言っていたのが印象に残っている。
自民党派でアンチアカな中日好きの名古屋人という普段は保守的な人なんだけれど。
 
ばあちゃんはリアルタイムで玉音放送を聴いたが、特に何も思わなかったと。

67 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/02/25 02:11
日本が負けたって聞いて慌てて北朝鮮から闇船に乗って南朝鮮に逃げてきたら
今度はGIに…とはよく婆ちゃんが語る話。北朝鮮が住みやすかったっぽいのがおもしろいなー。
じいちゃんは炊事班でまぁ怖いことは何もせずにすんだ、とのこと。

68 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/02/25 02:33
本人の発言なので真相は不明ですが、
うちの爺ちゃんは近衛兵をやってたらしいです。
中国で撮影した戦車の写真を山のように持っていました。
(実家にあるので、アップできませんが)
母の話によると、昔は夜中に悲鳴と同時に飛び起きることが何度もあったそうです。
人を殺す夢を見たとか、一度だけそうもらしたことがあるようです。
二十年ぐらい前にうちの爺さんに戦地で命を助けられたという人が
やってきたが、爺さんはほとんどまともに相手をせずに帰って
もらっていた。戦争の話をするのがかなり嫌だったみたいだ。
そういう爺さんの態度を見ているととても戦争の話をしてくれ
とは言えなかった。そんな爺さんも五年前に死にました。

77 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:03/02/25 22:38
母方の祖父、海運会社の社員で
開戦時アメリカにいてそのまま抑留。
1942年2月生まれの伯母は
戦後、やっと帰ってきた祖父に初めて会った時
「このおぢちゃんだれ〜?」とかほざいて
祖父はかなりショボーンだったらしい。


その後まもなく、伯母には妹が二人できた。

78 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/02/26 00:27
>>77
そりゃ、初めて会うんだから、
そんな反応だろうなぁw


79 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:03/02/26 15:10
母方の祖父は、そこそこ名の知れた仏師。
戦時中は仏様を造る際に使う糊にも不足していたようで、
ご飯を炊く時には釜の中に麦を敷き詰めた後、
配給の米を真中に集めて炊き、それを集めて糊を作っていたそうです。
おかげで母は、その当時麦飯しか食べられなかったそうな。

父方の祖父も同じように米を集めて炊かせていたそうですが、
それは自分だけが白いご飯を食べるため……
えらい違いだ(w

86 名前:あやめ[]投稿日:03/03/02 13:28
叔父の話
「昭和20年5月29日の横浜大空襲で住居(借家)が丸焼けになった
警報解除後に帰宅してみると焼け跡には何も残ってない
当時主食として配給される雑穀や芋などを粉食加工するのに重宝していた
石臼もボロボロになっていたが、唯一完全な原型を留めていたのは便所の
キンカクシだけで情けなかった、あいつは一度焼いてあるもんだからな
避難する時いつも何事にも気の回らないオヤジ(あやめの祖父)が盥を共同
水道の下に置いて水を出しっ放しにしたまま逃げた
お陰で水道の鉛管が熱で潰れずに済み長屋の衆は大助かり、うちも貴重な
盥が燃えずに残った
関東大震災の時もオヤジは井戸に戸板で蓋をして避難したので水が火事の
灰なんかで濁らず変な物も投げ込まれずに済んだと長屋の皆に感謝された
そうだ」
変な物うんぬんは当時「朝鮮人が井戸に毒を投げ込む」というデマが流布
されてたためだそうです

87 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:03/03/02 13:39
んじゃ、俺のじいちゃんの話も。

当方埼玉在住。埼玉県の中央からやや北に行ったところです。
埼玉県北部の熊谷市から、南東に10キロちょっとぐらいですね。まあ、よくある田舎町。
で、終戦の直前(一日か二日前だったなかな? 曖昧でスマソ)に熊谷市が空襲されました。
俺のじいちゃんはその時の話をたまにしてくれるんですが…

じいちゃん(当時15歳)は空襲の様子を、家の目の前にある土手に上って見ていたそうです。
熊谷に親戚の家があったから、心配になって見に行ったんだとか言ってましたが…
…もうね、アホかとバカかと(じいちゃんスマソ)。
あのなじいちゃん、熊谷が空襲されてる最中に土手なんかに上るなよ。
空襲だよ空襲。町の上空は敵機の進路の近くなんだよ。家の者は全員閉じこもってるっつーのに。

「さすがに立ってらんなかった。土手の草むらの中に伏せてたよ」とか言ってましたが、
そんな時に家から出ること自体間違ってるような。勇気があるのか無茶なだけなのか
(多分後者でしょうw)、すげえことをしたもんです。

88 名前:87[sage]投稿日:03/03/02 13:43
じいちゃんの視線の先、熊谷の空は明るくなってました。炎の赤に加え、B29が落とす
照明弾の白光も混ざり、昼間のようだったとか。
爺:「たくさんの焼夷弾が落ちてくのがはっきり見えた。雨が降るようにサッサッサッサッと。
   あの光景はホントに……きれいだったなあ。」
…きれいだったんかい!(まあ、その後「こう言っちゃ不謹慎だけど」と付け加えてましたが)

でもポカーンと見ているだけでは済まなかったらしく、
爺:「たま〜に熊谷行く途中のB29が、頭の上の方で旋回して行くのな。あれは怖かった。
   割と高空を飛んでたんだろうけど、見つからないかどうかハラハラした。
   B29はでかく見えるし、ほんとに怖かった。」

(((((((゚д゚;))))))ガクガクブルブル
まあ、幸いにして見つからずに済みました。じいちゃんが機銃掃射くらったりしなくて
ホントに良かった。

89 名前:87[sage]投稿日:03/03/02 13:45
翌日。熊谷が焼け野原になっているとは子供でも予想がつきます。
向こうの親戚の安否が心配だ。それに祖父は旧制熊谷中学の生徒、被害にあった
友人もいるに違いない。
爺:「それでだ、おじいちゃんは熊谷まで様子を見に行ったんだ。自転車に乗ってな。」

…やってくれます。空襲直後の街にチャリで乗り込むとは。
もっとも、じいちゃんが行かねばならぬ理由もあった。六人きょうだい(男4、女2の下から二番目)でしたが、
・長兄は海軍で家にいなかった。 ・次兄はちと体が弱い。それ以上に慎重派。
・末弟はまだ消防。女子供に危険なことはさせられない。
という訳だそうで。でも真相は自分から立候補したんだと思われます。
むしろ親とか周りが止めるのも聞かずに出て行ったようです、他の兄弟の話では。

で、じいちゃんは焼け野原へ足を踏み入れました。焼けた建物がいまだに燃えくすぶり、川には多くの死体。
駅近くの倉庫に貯蔵してあった缶詰は、熱でみんな破裂。女学校の校庭ではいくつも棺桶を作っていた。
でもじいちゃん、恐怖はそんなに感じなかったらしい。それよりも虚脱感のようなものを感じていたとか。
親戚にはその日会えなかった(家が焼け、家人も見つからなかった)ものの、後日無事だと分かりました。
でも市内に住んでたじいちゃんの同級生が亡くなったそうです(一度は避難したが、教科書を取りに家へ
戻ったところ、焼夷弾の直撃をくらったとか……合掌)。

こんな俺のじいちゃんは今でもまだ元気です。性格も(おそらく)当時と変わってない。
ヘタレな孫には、貴方のような真似はとてもできません。

92 名前:ファシスト文学士[]投稿日:03/03/02 19:04
取引先に中支戦線にいた帝国陸軍将校がいる。
その人の話によると、当番兵は塩と豚の脂身を絶やさずにしていたそうだ。
その二つがあれば、即席チャーハンができるとのこと
今でも軍隊で教わった体操をして自転車に乗り、街を往来する元気者。

93 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/03/03 18:44
漏れのじーちゃんは関東軍の輜重兵で、満州で終戦。シベリアに抑留された。
捕虜は一日こうりゃん飯一杯だけで、そのままでは飢え死にするから、
ロシア兵の食料(じゃがいも)をちょろまかす方法ばかり考えていたとのこと。
戦友の半分が飢えと寒さで死んだから、今でもロスケが大嫌いで、
あの国だけは信用してはイカン、が口グセです。

96 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/03/05 13:36
>>93
>>あの国だけは信用してはイカン、が口グセです。
禿同です。漏れの婆ちゃんもそれが口癖です。
「ロシアはねえ、条約を破って日本に攻め込んできたんよ。
あの国だけは(以下略)」
お年よりはみなロスケが嫌いなようでつ。
あともうひとつ、戦争の話になった時の婆ちゃんの口癖
「女学校の校長先生がねえ、朝礼の時に必ず『イタリアはすこぶる弱い!』言うんよ」

95 名前:世界@名無史さん[http:]投稿日:03/03/05 13:25
かれこれ30年も前に聞いた、中国戦線で戦った人の話。

その人の最初に戦ったのが徐州近くの都市の争奪戦。その都市の名前は聞いたが今は忘れた。

守りは固いと聞いて、充分な準備をして日本の部隊は城下にせまった。
ところが小競り合いが城外であっただけで守備隊からの反応は無し。
おそるおそる城門を入ると、守備兵はいない。逃げたと思われる。

代わりにあったのは、幾千とも知れない数え切れない死体。
中国人同士が殺し合ったとしか考えられない。
生存者を見つけて何があったのか聞いたけど誰も答えない。
部隊長はその死体の埋葬をすることに決め、城外の空き地を掘って埋葬した。

しかし戦場でも見たことのない死体の山、気が変になる。

3人が組んで作業をする。
死体に対して敬礼、もっこに乗せてひたすら運び、穴掘り担当の掘った穴へ埋葬し、
再び敬礼して土をかぶせる。
気が変になると、この敬礼ができなくなる。で、その人は2〜3日休養する。

これを1週間ほど繰り返していたところへ、名高い徐州戦への加勢命令が来たので
埋葬作業は終わり、その城下を離れた。

97 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/03/05 14:28
漏れのばあちゃんは大連に住んでた。
仕事で北京行の列車に乗っていたところ、
乗り合わせた軍人に敗戦の事実を聞かされ、
急いで引き返したとのこと

98 名前:97[]投稿日:03/03/05 14:40
印象に残っている話としては
〇敗戦後、中国の人(満人)が食料をたくさん
もってきてくれた。ばあちゃんがお礼を言うと、
満人の人達はニコニコ笑いながら「代金」といった。
〇進駐してきたソ連軍。将校は貴族のように礼儀正しく美しかった。
(女性将校も見かけたとのこと)
しかし兵士は、入れ墨をいれた囚人兵で、恐ろしく野蛮だった。
武装解除のため日本人の家に入ったソ連兵。
そのとき目覚まし時計が鳴ったら
兵器と勘違いしたソ連兵は
目覚ましに一斉射撃を加えたとのこと

107 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/03/11 18:41
うちのおじいちゃんは落下傘部隊でした。
乗っていた飛行機が海に墜落したことがあって、
必死に泳いで、助けに来てくれた船の辺りまで行ったけど
弱っている人から引き上げるもんだから全然自分を引き上げてくれない
だから、わざと溺れたふりをして助けてもらったとか。

他にも色んな話あったけど、
「おじいちゃんは優秀でかっこよかったんだぞ」みたいな話が
多かったから、話も誇張してると思う。今84歳。
「アメリカが日本を救ってくれた」と・・アメリカマンセーみたいです。

一方おばあちゃんは、戦争で前夫を亡くして、実の娘とも離れちゃった
せいもあってか、戦争の話は絶対にしない。

111 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:03/03/16 17:12
子供の頃、祖母の家で「開けるな」と言われていた戸棚の奥にある坪を開けたら、白い粉に混じって黒く焼けた骨が入っていた。
祖母に詳細を尋ねたところ、いつもの陽気さは消えうせていて、泣くまで怒られた記憶がある。
うちの村は米軍の上陸地点(沖縄です)で、集団自決も起きてるので、いまだ恐ろしくて詳細は聞けない。
分かっているのは祖母の一家は兄と祖母を残し全滅していることだけです。

また、祖父の弟は回転魚雷に乗って特攻。
命は取り留めたものの、片腕を失いました。
去年あっさりとなくなりましたが、さすが元帝国軍人だけあって、迫力のある人でした。
そんな人ですが、法事のたびに米軍の悪口を言いながらも、最後には「餓死を免れただけでも、アメリカーには感謝せねばならん」といつも言ってました。

主義や思想など、命のかかった場面ではさして意味はない…そう思わせる重たい言葉です。

113 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/03/21 13:09
今回のイラク攻撃について話してたら爺ちゃんが戦争体験について微妙に語ってくれたんだが
その内容がえげつなくて鬱になった。

フィリピン(だったかな)の前線基地に弾薬やら米やら全部まとめて置いといたら
そこ空襲されて全部あぼーん。
「素人でもまとめておいたら危ないってこと分かってたのに」とかグチってた。
かすかに残った食料や煙草は隊長達が全部持っていってしまって
兵隊たちには何にも支給されなかったんだと。
そんな感じだから配給途中に米がこぼれたりしたら兵隊達は必至こいて拾ってたんだけど
それを見た隊長連中は「恥ずかしいことするな!」・・・。
「どっちが恥ずかしい奴だよゴルァ!」と兵隊達は怒ってたらしい。

あといつかの正月にさらさらおかゆに梅干1個ついた御飯が支給されたけど
「いまだにそれよりおいしい物食べたことない」と言ってた。
兵隊連中はみんな泣いて食ってたとも。

んで終戦になって帰る時隊長が将校を一人一人呼び出して、
それに爺ちゃんも呼び出されたんだけど、その時言われた言葉が
「実家に帰ったら羊羹でも送ってくれ」
・・・人間って悲しいなぁ、と鬱になってしまったよ。
爺ちゃんはその言葉に対しては今でも怒ってた。

爺ちゃんは前線にいたみたいだから気を使ってしまってなかなか戦争については聞けないけど
1回くらいは詳しく聞いとこうかと思う。

121 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/03/24 23:38
今日祖母におそるおそる聞いてみたけど、意外に喋ってくれるもんなんだね。
そこまで悲惨な経験してないからかもしれないけど結構誰かに聞いて欲しいもんなのかな、と思った。
長かったから箇条書きだけど

・祖母は女学校の教師だったんで生徒をいわゆる学徒動員に逝かせてた。
・福岡・大村の味の素工場爆撃された跡地でみんなが味の素含む物資拾ってた。
・大村のどこかの病院の入り口に爆弾落ちて医師、看護婦、患者ほとんど死亡。
 祖母はその時防空壕にいたから助かったけど衝撃で穴が崩れた。
・長崎に原爆落ちたとき諫早にいたけど、ピカっと光ったので外に出てみたら物凄い煙(きのこ雲)が見えた。
・太平洋戦争前までは物資には何も困らなかった。一番きつかったのは昭和17〜22年ぐらい。
・米も野菜も芋も洋服も裁縫道具も本当に何もなかった。今考えるとあれは何だったんだというくらいなかった。
・天皇陛下マンセーだったのは事実。会話に「天皇」という言葉が出ただけで背筋伸ばしてた。
・アカ狩りの記憶もある
・出征する兵隊達に「生きて帰れ」じゃなくて「名誉の戦死をしてきてください」と本当に言ってた。
・戦後は農家の親戚から米をおみやげに貰っても闇ゴメとして警察にタイーホされたから
 おにぎりにして家に持ち帰ってた。

ちなみに祖母は今でも教育勅語を朗読できた。
天皇陛下マンセーの歌も歌えた。びびった。

123 名前:うちの一族の話[]投稿日:03/03/25 00:53
【父方爺さん】
 第一次ノモンハン事件に上等兵として従軍。肩・太ももを打ち抜かれる。
 2日かけて草原を這いずって帰陣。爺さんの部隊はその後の戦闘でほぼ全滅したらしい。
 内地に送還後、名誉の負傷ということで伍長に特進したようだ。
  その後、当時住んでいた大阪で内地勤務。大阪空襲で全財産を失う。
 空襲後、祖母さんが防空壕から出てきたら目の前にたまたま夫の爺さんが立っていた。
 そのときほど、二人の愛が高まったことはなかったようだ。 カッコよすぎ…
  それから台湾防衛 九十九里浜敵軍上陸阻止 など上層部の戦略ミス部隊に配属され、
 軍曹だか准尉にこれといったこともなく昇進。
 満州に新兵を送る途中、朝鮮半島で終戦。そのまま満州に行ってたら…
 あの戦争の中ではラッキーと言えるのかもしれない…

【母方爺さん】
  大学生で学徒動員。覚悟を決めたら経済学部ということで主計部へ。
 防空壕の中で簿記・会計をやっているうち終戦。逆に太って帰ってきたらしい。
 ラッキーだった。が…
 父方の爺さんはノモンハンで、戦友のほとんどが死んだトラウマで戦争の話をしなかった
(私は祖母や残ってる資料から調べた)が、母方の祖父は本人の責任ではないが、自分だけ安全な所で居られたことがトラウマになっているようで、戦争の話はいっさいしない。祖母が戦時中の話をしようとするととても不機嫌になる。
【大叔父】
南方で兵員輸送船とともに、サンゴ礁のなかで永眠しておられる…
【大伯父】
南方の戦線で手榴弾を投げようとしたところ、暴発。右手を失うも無事?帰還。

皆さん、ご苦労様でした(T△T)

128 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/03/27 18:15
うちの父方の爺さんは身長が低い為、兵役を免れたそうな。
学校の教師で、地元の名家の次男坊だった関係で、あまり悪くは言われなかったみたいだけどね。
戦後、大江健三郎の高校時代に国語を教えていたというだけで
大江健三郎を育てた人と地元では言われている。
だけど、漏れの生まれる前にはもう死んでいるので、戦争の話は知らない。

母方の爺さんは、満鉄の某駅の駅長だったそうな。
だから、婆さんが語る8月9日はいつもソ連の満州侵攻の日だったなぁ。
家族みんな連れて一目散に引き上げてきたらしい。
だからシベリアにも連れて行かれずに済んだ。
隣の駅の駅長は、最後の日本人を送り届けるまで帰れないと言い残して
そのまま帰らぬ人になったのに。
その駅長夫人は漏れの下宿先の近くに住んでいて、
たまたま出会って今お世話になっているのも人の縁ですね。
帰国後に産まれたのが母だから、戦争に負けなかったら漏れは産まれてないんだ。
母方のばぁちゃんも去年他界。じいちゃんは漏れが5歳の時に亡くなったから
あまり知らないけどね。

大伯父は、運動神経が良く、
中学卒業時に職業野球と某大学野球部からスカウトされるくらいの人だったらしいけど
見世物にされてまで野球をしたくないと職業野球を断り、
勉強をしたくないと大学も断って仕事をしていたら
召集されてフィリピン南方で玉砕。

死んだ人は妙に美化されるね。
真偽のほどはわからないけどね。

139 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/04/26 11:37
うちのおじの一人は、ニューギニアで死んだ。
突撃前に、爪と髪の毛が送られてきた。
駅で、小学生の「海ゆかば」の合唱の中、駅に遺骨箱が帰ってきた。
オジの母親が遺骨箱を家で開けたら、入ってたのは石ころ一つ。
泣いて怒って、投げ捨てたそうだ。

もう一人のオジは、地主になるといって、満蒙開拓団へ。
小便の凍る大地。どうやったのか中国人の農地の地主となる。
ソ連参戦で無一文で帰国。実家に居場所なく、人生が変わってしまった。

祖父は背が小さく。徴兵免除。「金玉なし野郎」と、近所の地主老人に
隣組の会議でいじめられた。

もう片方の実家は、祖父が死亡。長男が中国戦線。祖母と少年だった父が農地を守る。
夕方、畑で祖母は次男の父に「満州どっちだ」と聞き、長男を呼んで泣いていた。マジ、泣ける話。
食料配給は一番最後。地主が掠め取ってた。祖母が殴りこみ。
「女だと思って甘く見るな。ワレ!」かっくいい!

近所のジジイは、兵隊に食料や備品を送る倉庫の仕事。
戦後に「砂糖もタバコも捨てるほどあった。戦争は良かったなぁ」と、のたまわり、
今も近所全員の恨みをかっている。

140 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/05/10 23:15
電信隊だった祖父がいます。
高等小学校しか卒業していないので、まわりが大卒だらけで
肩身が狭かったそうです。大卒以外は、同じ部隊には百姓が2人いただけとか。
(入隊前の数学の試験で、一次関数は分かったが二次関数はわからんかったらしい)

中国の奥地にいましたが、地元の中国人とは交流があり、
大卒の兵隊は彼らと漢文(筆記)で会話していたそうです。
祖父が軍から支給された菓子(?)かなんかをとっておいて、
中国人の子供をあつめて配ってやったりすると、
その親からお返しを貰ったりもしたそうです。

あと、どこかの大使館に突っ込んで
祖父が部屋部屋を開けて確認しているとき、
ある部屋に女の人がかたまって震えていて、
またあんまり綺麗な人ばかりだったので、
そのまま扉をしめて報告しなかったそうです。

また、突入前には「絶対略奪はするな」と言って、
突入後も調べられたとか。

141 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:03/05/10 23:38
漏れのじい様は化学者だったので海軍少尉か中尉で
盤台山のあたりの化学プラントで火薬などの調合、生産してたそうな
でも末期の空襲なんかでタコつぼに隠れたら手が飛んできてびっくりしただの
、メチルアルコールをこれもアルコールだからといって仲間と飲んで偉い目に
あったとか 薬品中毒になってかなり危険だったとか Etc。。 
もっと聞いとけばよかったなぁ。。。

175 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:03/06/11 14:37
父方の祖父は按摩で、一家引き連れて満州へいっていたそうです。
戦争末期には祖父も戦争にかり出され、終戦後シベリアへ送られそう
になったところを命からがら逃げ出してきたそうです。
(走行中の列車から飛び降りてコウリャン畑に紛れて逃げ切ったそうな)
残された父たちは、戦争が終わっても直ぐに日本に返してもらえず、
生活していくためおはぎ等をつくって売っていたそうです。
中国人達に場所代を求められましたが、なぜかお金ではなく作っていた
おはぎ、それも食べかけのものをわざわざ持っていったとのこと。
ソ連兵が駐留していましたが、とりあえず未成年だった父達には
危害は加えられなかったそうです。ただ、伯母のオモチャの時計を
(オモチャとわかっていて)とって喜んでいたとか。
子供時代を満州で過ごした父は(終戦以前の)その頃のことを結構話して
くれたのですが、終戦以降の事はあまり話したがりません。
とくに引き揚げ時のことには口が重く、今でもよくうなされて飛び起きたり
していることから、やはり辛い事があったんだと…

182 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/06/14 12:50
このスレ、最近知りました。書き込みがないようなのでうちの父の話を。
父は昭和18年、15歳の時、陸軍少年飛行学校へ入校。太刀洗飛行場で10ヶ月
訓練を受け、その後、インドネシア/ジャワ島のマラン飛行場にある練成
飛行隊へ配属されました。
当時、インドネシアは結構生活状況がよかったみたいです。というのも、
オランダ軍が簡単に降伏したので大量の物資が残されたままになっていた
らしく、父曰く「訓練の合間に氷を浮べたアイスコーヒーを飲んでいた」
「食事にカレーライスがよく出た」「食後チョコレートが配られた」
「シャワー設備があり石鹸は山のようにあった」とのこと。これらは搭乗員が
優遇されていたということもあり、他の人達は多少状況が違っていた
かもしれませんが、他の地域よりはかなりよかったようです。

また、「インドネシアは米軍の侵攻ルートからはずれていたので攻撃は週に
1・2回、爆撃機が定期的に爆弾を落としていくだけ」といっていたので戦場
という緊迫感はあまりなかったような印象があります。
訓練は当初こそ射撃訓練をしていたそうですが、後半は専ら体当たりの訓練
ばかり。実戦経験はないといっていましたが、一度だけ実弾を積んだ九七戦で
哨戒飛行をしたことがあるといっていました。


183 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/06/14 12:57
>>182のつづき
終戦間際、沖縄出撃のため、数班に分かれ、飛行機、鉄道を乗り継いでジャワ
から九州の飛行場へ移動。途中、東京で終戦となり、引率の上官が本部に
命令を受けにいったところ「蜂の巣をつついたような状態で話にならん。
取り敢えず、各自自分の本籍地近くの飛行場に行ってそこで命令を受けるように」
と言われ、九州出身者二人、超満員の汽車で佐賀の飛行場へ。そこでも状況は
同じで「自宅待機」と言われ、そのまま実家に帰って来たとのことです。
写真数枚と飛行帽、防火頭巾、銃剣は実家にあります。飛行服は戦後、物が
なかった頃、ペンキ屋に貸したらペンキで汚されたので捨てしまったとのこと。
軍刀はないのか、と聞いたら「あれは私物だから貧乏人の子は持っていなかった」
といっていました。
戦後は警察予備隊(保安隊?自衛隊の前身)の試験を受けようとしたらしいのですが
母親に反対され、百姓するがいやで大工をやっていました。
4年前、ガンで他界。生前、知覧の特攻記念館に行ってみたいか、と聞いたこと
があります。戦時中の話をよくするので当然行きたい、と言うと思っていたら
あまり興味を示さなかったのはちょっと以外でした。(単に鹿児島まで行くのが
面倒くさかっただけかも)。
毎年、8月15日正午、いつも欠かさず一人離れて黙祷をしていました。


185 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/06/15 09:19
私の叔父は日本郵船の船員で戦前内南洋通いの船にいましたが、戦争とともに
海軍軍属になり、軍人、弾薬、食料などを各島に配給してました。昭和18年暮
トラック島でアメリカ潜水艦の魚雷を受けました。5000トンの船が沈むまで
ものの一分とはかかりませんでした。併し2000人程の乗船者で助かった人は
7人はいたそうです。もう一人の叔父は広島で原爆にあいました。叔母従兄弟3人
は即死でしたが、叔父はたまたま宇品に出張で、免れたのですが放射線後遺症で
20年ぐらいで若くしてガンで死亡しました。中学の同級生は東京で3.10
の空襲に会い隅田川で溺死しました。3月8日に50人ほどいたクラス員が11日
になると来てた生徒は15人ぐらいでした。今でも小学校の同窓会があると、戦争
で受けた火傷の跡を見せ合います。

189 名前:182[sage]投稿日:03/06/15 17:23
少飛会より送られてきた写真集に掲載されていた投稿文より

生と死の間で  椿 恵文(十四期)

・・・・・・・・
部屋にはいってきた井上少尉は、ふるえをまじえた大声で、「隊長殿よりの御
指示、空勤者はそのまま聞け・・。本隊はいよいよ第一回目の特攻隊の命を受
けた。諸子はいずれも志願したいことと思う。選抜の関係上、ただ今より各人
五分おきに隊長室に行き、特攻隊、賛否を隊長殿に申告すること。順は、第一
中隊より、終り。」
息もつかずに、一気にそれだけのことを言い終ると、じろりとわれわれの顔を
見渡し、くるりと踵をして、次の部屋に向かった。
・・・・・・・・
何か別の世界の出来事のような感じで、現実がこのような形で、同じように自
分の身に迫って来るとはいままで少しも考えていなかった。心のどこかに敵の
軍艦に飛行機もろともおのれの肉体をぶっつけるという自殺行為をやる先輩達
の考え方にはとても理解し難い気持ちが心の隅に残っていた。だが、今それが
突如自分自身の問題となったのだ。もはや冷静な批判などできない黒い死の手
を差し延べられたような感じであった。私はどうしていいかわからなかった。
・・・・・・・・


190 名前:182[sage]投稿日:03/06/15 17:28
189のつづき
・・・・・。私の本心は「死にたくない」であった。私も軍人であり、特に飛
行機乗りを志願している以上、死を考え、死を覚悟していることは当然であっ
た。だが私は自殺に似たようなことでは死にたくなかった。敵機と渡り合って
そのために死ぬのは本望である。これまでも敵機と撃ち合うとき命が惜しいと
思ったことはなかった。それに、もう一度内地の土を踏むことができるなら、
夢にも忘れられない、なつかしい母のいる内地の上空で、敵機と渡り合いなが
ら死にたかった。私はこのまま特攻隊で死ぬのはいやだ。
そこで私は内地の「防空戦隊にまいりたいと思います」と、隊長に言おうとよ
うやく決心をつけた。
するとまたその決心をひるがえすような、考えが頭をもたげてくる。
意気地なし、卑怯者!、嘲笑を頭から浴びせかけられそうな気がする。それは
恥ずかしい。恐ろしいことであった。
・・・・・・・・
やがて私の番がまわってきた。私は立ち上がった。さすがに隊長室に向う足は
重かった。ノーと、強く決心したつもりであったが心の動揺は隠しようがなか
った。
「椿、まいりました」


191 名前:182[sage]投稿日:03/06/15 17:36
190のつづき
隊長室にはいった私は、こう言うのが精一杯であった。私の視線は、隊長片山
大尉の鷲のように鋭い視線に合うと、思わず射すくめられたようになった。僅
かの沈黙が耐えられなかった私は、
「特攻隊、志願したいと思います。」と言ってしまった。
何ということであろう。私は今まで考えてもいなかった言葉が、突然私の口か
ら反射的に出てしまったことに驚いた。
・・・・・・・・
私は自分をあらゆる形容で罵倒したかった。自室に帰った私はなおも苦悩はつ
づき、平静を取り戻すことができなかった。
耐え切れなくなった私は、そっと隣の戦友に声をかけた。
「どうした貴様は」
聞いてみても仕方がないことかもしれないが、聞かずにはいられなかった。
「おれか、おれは志願したよ」
彼は吐き捨てるようにそう言った。そのうち方々で同じような話がはじまった。
驚いたことに、一人残らず志願したということがわかった。私は思わず、ホッ
とした。よかった!私一人が志願しなかったら今頃、反対にどんなに心を苦し
めているだろう。まさか全部が特攻隊になることもあるまい。私はいくらか気
持ちが楽になり、さき程の深刻な苦悩が馬鹿らしくさえ感ぜられるのであった。
(終り)

193 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/06/24 02:15
私が子供の頃プラモでグラマンF6Fヘルキャットを作っていたら
部屋に来た母親が「これこれこれだよー」と大声で言う。
母が言うには昭和20年の夏に小学生だった母達は学校の帰り機銃掃射を受けた
そうです 農業用水の土管の中に逃げ込み助かったと言ってました 
「フグみたいな格好で紺色で羽にサッポロビールのマークがついてた」と
興奮して話しました。なお暑いのでパイロットの上半身は裸だったのがわかった
そうです

194 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/06/24 15:52
・母方の祖父
富山在住。現在80歳。
戦時中は満州配属。
小さいときに「ピストル撃ったの?」と聞いたら
「いや〜算盤はじいとった」と言っていたから事務方だったのかな?
戦争のことを聞くと、ちょっと聞かれたくないような顔をするので
あんまり突っ込んで聞けないんだよな…
戦後は専売公社(今のJTB)に勤めてたそうだ。
「昔は仕事の時間、麻雀ばっかりしてた。のんびりしてて楽しかった。
 ある日、煙草の倉庫に行ったら箱がごっそり消えていた。
 誰か横流ししちゃったんだろうねえ」
………おじいちゃん。
農家だったからか、食べ物にはそんなに不自由しなかったようだ。

195 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:03/06/24 15:58
194余談 戦後メインなんでsage
・父 
現在63歳。東京大田区在住。
父の父親は工場(軍とも取引があった)の社長だったので
徴兵はされなかったとのこと。
叔父は海軍で蒼龍に乗っていたらしい。
自分は家庭がある程度裕福だったので、飢えはしなかったが
小学校の頃の友達が皆大変だった。

「近くの川でザリガニを捕まえて殻を剥き、エビだと言って大人に売りまくった」
と言ってました。
「食べれない友達がいっぱいいたんだよ。」とのこと。

197 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:03/06/24 18:43
81歳の祖母。福岡。

戦時中は女工としてかり出されてた。
工場の監督は軍人だったけど、空襲で軍人さんが死ぬことはなかったそうだ。
一番早く情報を手に入れて、真っ先に防空壕に逃げるから。
防空壕にも頑丈なのとそうでもないのがあって、祖母は頑丈な方に入れたけど、
守衛さん(だったと思う)は許可されたなかったから、どさくさに紛れて頑丈な方に入ってきてた
って話しを聞いた。

199 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/06/24 20:22
俺の父方の祖父、故人だが、戦場でちょっとした手柄をいくつかたてて
勲章を貰ったそうだ。その手柄の内容。

敵の戦列と自軍の戦列との丁度中間ぐらいに、味方の通信兵の死体があったらしい。
その通信兵が持ってる文書?だかなんだかを、なんとしても回収せにゃならん、と
いうことで兵隊が一人ずつ順番に取りに行かされたそうな。んで、みんなその死体
のあるところまではたどり着けるんだけど、荷物を回収してこっちへ戻ってこよう
としたときに撃たれて死んでしまった。そして、祖父に順番が回ってきた。
祖父も、通信兵の死体のところまではたどり着けた。しかし、普通に戻ろうと
すれば背中から撃たれてしまう。そこで祖父は、そこにあった味方の死体を背負っ
て、それを盾にして無事もどってきたそうだ。
人によってはひどいやり方だと思うだろうけど、俺はこの話を聞いて祖父を尊敬
してる。

200 名前:199[]投稿日:03/06/24 20:43
後もう一個、敵兵と混戦状態になって、銃なんか撃てる状況じゃなくて
銃剣使っての殺し合いになったときの話なんだそうだが、上官が敵兵に
殺されかけてるのを見つけたんだと。
それで祖父は、その上官の背中側から上官もろとも敵兵を串刺しにしようと
したらしい。どーせ殺られるんだから、利用したれってな感覚なんだろうか。
ぶっちゃけ、人間二人もいっぺんに突き殺したりできるのか怪しいが、
興奮してたんだろうな。そしたら、上官が偶然足を滑らせその場に倒れ
ちゃったおかげで、うまく敵兵だけを突き殺したんだと。んで、その上官を
助けたってことになったそうだ。その手柄と、先述の手柄を評価されて
勲章をもらったそうだ。

なお、この祖父は帰国後、その抜け目ない性格を活かしてなのか知らんが、
ゼロから商売を始めてそこそこの料理旅館をのこして逝った。
祖父を越えるような男にはなかなかなれんだろうなー、なんて思う。

215 名前:世界@名無史さん []投稿日:03/06/27 15:02
うちの父方の祖父母の話です。

祖母の兄弟の場合
兄1人は中国戦線に3回徴兵。
騎馬兵で、馬が身代わりになってくれた事も。

弟2人は終戦後に負傷、そして死亡。
遺留品は石と名前を書いた紙だけ。

祖母の姉は8月27日に満州で家族4人全員自決。
ソ連兵に捕まるぐらいなら、との自決だったらしい。

祖父は体が弱くて甲乙丙に全て落ちましたが、
仙台に住んでいたため仙台大空襲に遭遇して、
目の前にいた中学校の先生の頭に焼夷弾が命中し、
脳漿と眼球が飛び散るのを目撃。
東京生まれで、関東大震災も生き延びた結構すごい人です。

232 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/07/12 01:21
うちのばあさんは、大連にいて家の窓から
日本軍の行進・中国軍の行進・ロシア軍の行進
を全部見たそうです。
中国軍とロシア軍は歌いながら行進していたとか。
曰く、中国軍も歌はうまかったけどロシア軍は輪唱
になっていてすごくうまかった。とか。

239 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/07/12 20:12
うちの父方のじいちゃん。

海軍の戦闘機乗りで准尉まで叩き上げたけど、
戦闘中の負傷で前線からリタイヤ。
以後は本土で特攻隊の教官になり、終戦を迎える。
玉音放送の後、「全機特攻」を叫ぶ大尉だか中尉だかを射殺。
上には自決と報告して、敗戦のドサクサに紛れて罪を免れたらしい。

死後に出てきた手紙や書類や勲章、
葬式に来たじいちゃんの元部下の話とかを知って、初めて知った。
じいちゃんは、父ちゃんにもおれにも戦争の話は全然しなかった。
飛行機とは全然関係ない仕事に就いて、穏やかに定年を迎え、静かに死んだ。

あまりに多くのものを戦争で背負ってしまったじいちゃんは、
戦後の日本をどう眺めていたんだろうか?
何を思って、沈黙を守り続けたのだろうか?
今さらだけど、何も聞けなかったのが悔やまれる。

特に宗教やってるわけでもないじいちゃんが、
毎朝般若心経を唱えていた理由を厨坊の時に聞いたら、
「わしゃあ悪さばかりしてきたけん、仏さんに許してもらわなんといけんのじゃあ」と言われ、
( ̄△ ̄;)エッ・・?って感じで意味が分からなかったけど、
やはり死んだ戦友や、自分が育てた特攻隊員への供養だったんだろうか?

247 名前:笑い話[]投稿日:03/07/13 23:25
母方の祖父から面白い話を聞きました。戦争末期に祖父は、家の近くの陸軍飛行場
で臨時の整備員をやらされていたそうです。そこである晩に敵機が来襲。敵戦闘機
は物量に物を言わせて、機銃弾を雨あられと振りまいたそうです。そんな時に、一
人のテンプラ(特操と言われた即席の操縦者)が血気に逸って戦闘機に搭乗して離
陸。しかし、離陸直後になんとエンジンがもげた!?飛行機はエンジンが無い状態
で胴体着陸・・・。パイロットは足を折って病院送り。原因を調べてみると、エン
ジンを載せてた土台の金属が疲労して腐っていたとの事。だが、その飛行機は工場
から送られてきたばかりの新品。祖父が言うには機体にアルミ箔みたいな金属を使
ってれば負けるのは当然との事。
そんな祖父も現在は、自分が昔勤めていた飛行場の跡地で田んぼをやってます。

269 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/08/14 04:45
私の祖父は戦争末期に海軍に徴兵されたものの、内地の軍港での勤務にまわされ、
それほど危険な目には合わなかったようです。ただ一度、飛行場で肉体労働させ
られてた時に米軍機の機銃掃射に晒されたらしく、仲間とともに近くの竹やぶに
逃げ込んだとのこと。しかし白い作業服を着てたせいで米軍機からよく見えたよ
うで、次々に撃たれはじめたらしい。体の大きい兵隊が蜂の巣にされて目の前で
殺されたという話は何度も聞かされました。その際、米軍機の機銃の弾が近くの
岩にあたって、そのかけらが足の脛にめり込んで負傷。米軍機が去った後、上官
にナイフで弾をえぐり出してもらい(激痛どころの痛みではなかったらしい)、
病院へ送られたとのこと。

あと、思い出深いのは、飛行場に日本の戦闘機が無数においてあったらしく、ま
だ日本も戦える、と思って近づいてみたら、木製の飾りだったという話。敵機の
目をごまかすためか、囮だったのか、国民をだまくらかす為だったのか…。事実
かどうか未だにわかりませんが、どなたか同じような話聞かれた方いらっしゃい
ませんか?

戦後、祖母と結婚して伯父を生んだ頃、下宿先の家主が一方的に立ち退きをせま
ってきて、行く先の無い祖父は破れかぶれで裁判に持ち込み、裁判官に浪花節で
家族を路頭に迷わせないでくれと訴え、見事家を勝ち取ったとか。細かい事情は
知らないが、その家主というのが半島系のひとで、死ぬ前まで三国人がどーのこ
ーのと時々愚痴をいってました。

幼い私を前にしてよく祖父が言ったのは、「もう少し戦争続けてれば日本は勝っ
てた」というのと、「戦争で兵隊が死ぬのはしょうがない。でも一般の人間が死
ぬのは悪いこと」というものでした。前者は強がりでしょうが、当時の一般的な
愛国心のかけらを垣間見たような気が、子供心に感じられました。

275 名前:世界@名無史さん [age]投稿日:03/08/14 22:12
知り合いの人の話です。
何処の所属かは聞いてないですが、中国のかなり奥地で新四軍と戦っていたため、
終戦の情報が伝わらずに何年も戦闘を続けていたが、
奥地過ぎて補給が無くて両軍が同じ井戸を使っていたらしい。
そのうちにお互いに仲良くなり、殺しあうのが馬鹿らしくなって戦闘終了。(帰還は昭和27年)
命を賭して戦っただけあって、ものすごい親友になり
ちなみにその人たちは現在中国軍の将軍クラスになっているそうです。
中国軍の人達とは今でも仲が良く、その人は中国物産店を経営してます。
兵隊やくざのモデルになった人とも友達だそうです。(父が会いました。)

281 名前:世界@名無史さん[age]投稿日:03/08/15 00:44
戦後の話ですが、父方の祖母の実家は割と大きな料理屋をやっていて、
近くに駐屯していたイギリス軍の将校がたまに飲みに来ていたそうです。
そのイギリスの人は、来るたびに抱えるほどのチョコレートとキャンディを持ってきて、
最初に女将をしていた曾祖母に多く渡して、その後にも祖母や芸子さんたちにも
両手一杯のチョコレートとキャンディを「ママさん、ママさん」と言ってくれたそうです。

祖母は、
「礼儀正しくて、話し方も丁寧だったよ。
 なかなかの育ちの人だったんだろうし、いい人だったね。」
と話してくれました。なんだか救われるような話です。

282 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:03/08/15 04:39
うちのジーサンはシベリアにいたらしいんだが、とにかくソ連が嫌いだった、あんまり
くわしく話してくれないんだが、共産主義者は簡単に裏切るから信用するな!と
酔っ払った時によくいってた。ただ死の直前に仏壇に入っている髪の毛二束を一緒に
燃やしてくれ、と言って「何コレ?」と聞いたら、シベリア抑留中に死んだ戦友の
ものだ、といわれた。家族も空襲で死んでいて渡す人がいなかったそうだ。
誰か一人でも生き残って日本へ帰ろう、と約束したんだそうだ。結局じいさんだけが
生き残れたそうだ。遺品も何もなくて遺髪だけをこっそり隠してもってたそうだ。

296 名前:世界@名無史さん [age]投稿日:03/10/12 16:13
直接戦争経験とは違いますが、僕の父親は昭和21年生まれです。
その父が生後半年頃に高熱が出て(のうきょう、という病気らしいです。)
ほとんど助からないと診断されたのですが
医者に「ペニシリンがあれば何とかなるかもしれない。」と言われ
探したら、同じ市内の旅館にアメリカ軍から購入した乾燥ペニシリンが2つほど
残っていたらしく、それを当時¥4000で譲ってもらい、そのおかげで助かりました。

父は高熱の影響で片目が見えないですが、まったく普通に暮らしています。
祖父も体が弱くて徴兵されませんでした。
この出来事のおかげか、兄弟3人を亡くした祖母もアメリカに好意を持っています。
(N○Kの朝ドラと似たような話ですが、実話です。)

299 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/10/13 09:01
戦闘機に追いかけられ、逃げ回ったが銃弾が腰に直撃。
腰に手を触れるとヌルっとした感触が手に広がり、死を覚悟した。
しかし、よくみると腰につけた水筒が破裂していて、
血だと思ったものは水だったそうだ。

もし本当に直撃していたら俺は存在しない・・・
今俺がこの時代この場所にいるってすごい確率だなって思ってしまった・・・

305 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/10/13 18:15
ちょっと間の抜けた話で、しかもちょっと不謹慎なのでアレなんだが、祖父から聞いた話。

祖父は福岡から朝鮮半島へ、後方の空港での整備士として行ったらしい。
整備士でそれも後方だから実戦の経験は全く無し。血を見ることも少なかったそうだ。
物資も食料も全然問題なくて、むしろ潤沢にあったらしい。
よく現地人と毛布とか時計とか、なんかいろんなものを、朝鮮焼酎(どぶろくだっけな)や餅と交換したといってた。
祖父の口から朝鮮や中国の人への文句とかが出てくるかな、と思ったがそんなのは全然なくて、中国人の商人なんかとは一緒に宴会やったこともあるらしい。
かなり紳士的だったみたい。もちろん非戦闘地域だったからだろうけど。

で、終戦になって、いろんなものを山ほど持って引き上げようとしたら、日本への船に同情した人たちの身なりや痩せ方がすごい。
そういう話は聞いてたらしいが、実際目にした時は驚いたそうで。
んで祖父は、「うちは実家が農家だから、とりあえず帰れば何でもある。みなさんで分けてください」
と、持って帰るつもり荷物を全部周りの人たちにあげちゃったそうだ。
実家に帰った時持っていたのは、煙草2箱と焼酎1本w
んで実家帰ったのはいいが、実家にも本当に食べるものがなにもなくて、腰を抜かしたらしい。
必死でやりくりしながらなんとか食べ物をかき集めて家を守っていた祖母もその話を聞いて腰を抜かした。
持って帰ってこいよ、と。

血なまぐさい話や悲惨な話をよく聞くし、私もむしろ心のどこか(不謹慎ながら)でそう言う話を期待して祖父から聞いたのが、この話。
祖父は非常に幸運な一例に過ぎないと思うし、こういう例は少なかったんだとは思う。
でも、一口に戦争、といってもいろいろあるものだ、本当に。


308 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/10/17 17:24
うちの母の話し。

飛行機(B29?)が爆弾を落しに来ると、あっちこっちから大砲を打ち上げたそうな。
で、当たると火と煙をはきながらゆっくりとクルクル回って落ちてくるそうだ。
落下傘が降りてくる方向を見ながら走って行くと飛行兵が居る。
みんな周りに集まってくるけど、誰か判らない人が近ずくなと言うそうです。
そのうちに軍が来て飛行兵は連れて行ってしまうそうです。

飛行機が落ちると回りの人は急いで落ちた所に行って軍が来ないうちに
部品とかを拾って帰ったって母は言ってました。
拾う人は記念品みたいな感じで拾いに行ったみたいです。

311 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/11/04 16:27
輸送船に乗っていた、お爺さんが話してくれたこと。
深夜に出航して海上で日が昇る。
敵潜水艦の監視をしながら航行すると突然船が振動して大きな音がする。
誰かがヤラレタと叫んだ。
急いで船内から甲板に出ると船の前付近に船員が集まって来ている。
どうやら船前部に食らったらしい。
船内に戻ると多くの船員が走って前部船底に向っている。
誰の大声か判らないけど、船倉に向えと叫んでいる。
お爺さんも前部船底に向う。
向う時に「とうとうきたか」「これで死ぬのかな」と思いながら向った。
前に近ずくと廊下が水びたしだ。
その先には大勢で扉を閉めようとしてるけど扉の向こうから水が噴出している。
大勢でもなかなか閉まらない。そのうちに足元が水のせいで滑りだす。
なんとか閉めて甲板に出ると前の船倉を見ると船倉が水没している。
助けに来る船が来るまで不安でどうしようもなかったと話してくれた。
二回目の攻撃が無くてよかったと。

316 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/11/08 22:15
小学生のころに聞いた話なのでうろ覚えでスマソ

父方の祖父は砂浜で(輸送船で上陸後?)戦闘機の機銃掃射が手にかすめたと。
傷を見せてもらいましたがたいして大きくない。
ホントにちょっとかすめただけなんだろうね。良かった。
その後上官を殴り内地へ送り返されたとか。
捕虜を殴れと言われて抵抗したらしいが何故?

母方の祖父は職業軍人。
フィリピンにいたらしい。
その後インパール作戦に動員されたが無事?生還。
よく帰ってきてくれました(涙

上記の2名とも亡くなりました。
ご苦労様です、本当にありがとうございました。

ちなみに父方の祖母は「馬鹿をみた、馬鹿をみた」これしか言わねぇw
オヤジは線路をアメ公の戦車が輸送されるのを幼いころに目撃したとか。
M1だっけかな?

318 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:03/11/09 00:46
うちのジーサンは満州→シベリア。
中華料理が大層気に入ったらしく、いろいろ教えてもらったみたい。
子供の頃、よく水餃子作ってくれたよ。
酔っ払うと捕虜時代の話を始めるね。
ロスケはスキーがへたくそだとか、ボルシチ作った話とか。
食い物の話ばっかだw

320 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/11/18 00:28
面白い記事ですね。
小水に目が覚めて眠れなくなってしまったんでパソコンをつけたんですが
こういう記事が世界史掲示板にあるとはしらなかったです。

当方は終戦時に長門に配属されてた者です
階級は大尉で、終戦昇進で少佐でした。
レイテで端鶴乗り組みでしたが、配属された幼顔の搭乗員達が
ほとんど帰還しなかった事を覚えています。
あと、攻撃中も沈没の時も不気味なくらいにおついていて
「貴様は残るのか?」
「ああ、やっぱり死ぬことにするよ」
などという奇怪な会話に、私も危うく艦内に残りそうになりました。

また機会があればここに参上したいと思います

321 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/11/18 00:46
>>320
お〜〜
ついに現役軍人だった御方の光臨か!
まだおられますか?海兵何期ですか?

322 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/11/18 00:49
70期です。
同期にレイテ特攻に参加された関大尉がおられます

323 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:03/11/18 00:54
>>322
すごいなぁ・・・いま80歳くらいですよね?
海兵の生活ってどんなんだったんですか?

324 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/11/18 01:03
記憶が年の為あいまい・・・とよく言われますが、
年をとればとるほど若き日の記憶が鮮明になるもんですね。

海兵の生活世間の想像とは異なって
別段今の学校と特に変わるところはありません。
ただ、教わっていることが海軍に関する事だというところです
殴られた事も何度かありますが、そう四六時中殴られると言う事もありませんでした
あと、あまりに横暴な上級生徒様に数人がかりで深夜逆襲に参上する事もありましたね。

326 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/11/18 01:12
当時の校長先生、確か草鹿任一中将か新見政一中将か不鮮明なのですが
今考えても気持ち悪いくらいに温厚な方で、こうした問題が発覚しても
よかよか、で解決していた様な記憶があります。

334 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/11/18 01:31
関氏についてはあまり触れ合う機会はなかったのですが
外出の時にあぶれてしまって、何気なく入った当時の喫茶店で
ひたすら女性の店員と話されていた事を覚えていますね。
聞き耳をたてて(失礼!)みると、住所をひたすら聞きたがっていました
今で言うところのナンパになるのでしょうか?
あと、校内での振舞いもそんなにほめられた事ではなかったようでね

正直申し上げれば、最初に突入を知ったときは
真剣に新聞の誤植を疑った、大変死者に失礼な私でしたね。

341 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:03/11/18 01:43
ほかの事も聞きたい・・なんでもエエんで

342 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/11/18 01:50
そうですね・・その関氏本人がよく食事中に五月蝿いとの罵声も無視して
話していたのは、「世界は殺し合いをしてるのに、日本だけはポーカーをしてる
恋愛だって女に刺されるご時世なんだからいい加減に殺しあう覚悟が必要」と言われてましたね
当時の私はよく理解できませんでしたが、おそらくは世界が全体戦争・総力戦に向かう風潮で
日本だけが部分戦争、要するにスポーツ戦争するのは危険だといいたかったのではないでしょうか?

私もまさに彼の言うポーカー派(!?)でマリアナ陥落や、レイテ陥落後も
まずいよね、とまるでTVゲームの調子が悪いくらいの気持ちでした。
でも、本土に戻って来てようやくボケていた自分を情けなく思いましたし
正直こんなものは最早戦争にあるまいという感情の方が大きかったです

361 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/11/18 05:58
皆様おはようございます。そしてはじめまして。
七十期の先輩がご記入なされたのを見て、
これまで閲覧するだけでした海兵七十五期の私も奮起して初投稿いたします。
ここのスレツドにおられます諸氏は武勇伝を聞かせたいところなのですが
まことに申し訳ございませんが実際に私は戦場に出たわけではなく、在校中に終戦を迎えてしまいまして
実際の所は戦後派に部類されてしまう人種です。
しかしながら海兵終戦時の騒動でしたらある程度は記憶してますので、
あまり文献の少ない終戦騒動下の海兵でしたら私に可能な限り御質問にお答えしたいと思います。
私と同年代の物でも機関科や技術畑に進んだものはコンピュータに詳しいものも多い模様ですので
以外にこの掲示板にも老兵が居られるのではないでしょうか?
もし居られましたらぜひご参加願いたいところであります。
また、知識豊富な若者の多い掲示板ですので
こちらの記憶不鮮明から誤った事を申してる場合はぜひ指摘していただければ幸いです。

363 名前:海兵七十期のポーカー派[sage]投稿日:03/11/18 09:40
おはようございます。361氏につきましては始めまして。 海兵七十五期という事は身も蓋もない言い方をすれば
卒業年で海軍が潰れたせいで、「しごかれ損」に見舞われた世代になりますな。
終戦に関して生徒側で何か騒動はなかったんですか?外からの騒動であれば
自分の記憶では呉に所属する潜水艦の何隻かが血気にはやる将官によって事実上の抗命宣言を
行い、兵学校生徒に決起を促したと記憶してるのですが、結局彼等はどうなったんですが?
多感な時期に自分達の存在意義を全否定される様事態に遭遇するのはある意味我々よりも大変だっと思いますよ。
自分なんかはその頃は長門の艦上で相当冷ややかな態度でしたし、別段悲しくもなく
むしろ快適とも言えた生活に終わりが来ることの方がよっぽどに悲しかったという
当時の仕官達が心の底でこっそり思ってい事をおくびにもなく部下にも言ってましたね。
おかげで部下からの終戦参りに遭遇せずにすみましたが・・
私の席次はクラスヘッドなどとはまさに無縁でしたし、357氏のおっしゃられるとうり
平和な時代なら多分少佐昇格で予備役編入でクビですな。後続の貴方がどのような理想で入校したのか、その意は存じませんが
自分などは正直な話「惰性」という二文字がまさに的確だったのでしゃないかと思いますので、
ひょっとすると、当時なら猥雑な仕官として後輩から軽蔑された存在なのではないでしょうか。
今になって分析すると、入校前後に発生した陸軍の行動将校の反乱や、完全に右によった世論を
相当冷ややかな思いでみてましたし、兵学校入学も単純に実家に最も近いからと言うのが理由でしたんで
入校時の作文は「入校理由」を書くのに相当四苦八苦した記憶があります。


364 名前:海兵七十期のポーカー派 ◆ZYEMgbhZg2 []投稿日:03/11/18 09:40
ただ、私の頃の海軍はこの様な燃え上がらない場違いな男でも
職務を正確随意に遂行すれば特にとがめられる事もなかったと言う、
当時としては大変リベラルな一面を持っていたので大変すごし易かったですね
ただ、やはりステレオタイプの海兵生徒とは限りなく異質な存在と言えたので
兵学校に関してはおそらく貴方の方が真っ当な証言ができますよ。
自分の話だとどいつもこいつも相当いいヤツ等の集う場所だったと誤解を与えかねないのでね。
ただ、戦況の推移に関しては(今日分析される様な危機感を抱かなかったという、問題はありましたが)
結構冷静に分析していた自信はございますんで、戦闘に関する事なら
ある程度はお答えできるのではないでしょうか?

365 名前:海兵七十期のポーカー派 ◆ZYEMgbhZg2 []投稿日:03/11/18 09:46
ここに居られる若い方々にまず申したいのは当時の人間は
別に異惑星人でもなく、今の貴方がと何も変わらぬ若者であったことです
目上の者に「キレる」者もおりましたし、駅前の大衆商店(今日のコンビニエンスやスーパ)の
入り口に纏わり付くものもたくさんおりました。
ただ、個人主義者でも自信の行動に責任を持てる、持たねばならないという雰囲気が
今とは唯一異なる点ではなかったかと思います。
この点に関してはたった一点ながら、きわめて大きな一点であると思います。

367 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/11/18 09:54
キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!
七十期様、卒業さてからはどこに配属されたんですか?

369 名前:海兵七十期のポーカー派 ◆ZYEMgbhZg2 []投稿日:03/11/18 10:16
367氏、一時呉工廠に配属の後に空母鳳翔、後大和配属、5日間ですが戦艦伊勢に出張していた時期もあります。
18年の(時期は忘れてしまいましたが)武蔵に配属になって当時のGF司令部とトラックにいきましたが
同期の中でも相当に転任の多い奴だと参謀長に言われた記憶があります。
なんでも転任は多いものは浮つきやすいから気をつけなさいといわれましたね。
(当時の参謀長は故宇垣中将だった筈です)
いずれも海軍兵学校も快適だったんですがそれを上回る快適さでしたね・・
送る手紙送る手紙、やれ飯がうまいだのエアコンに隔世の隔たりを感じるなど
書き込みすぎたせいで、検閲に引っかかって横須賀の検閲将校と思わしき陸軍中佐から
「何しに軍人になったのか!」と便箋20枚近いお叱りを受けたこともありますね。

368 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:03/11/18 10:00
>>363
「終戦参り」ワロタ!!今の「卒業参り」とまったく同じですね。
>>365
>ここに居られる若い方々にまず申したいのは当時の人間は
>別に異惑星人でもなく、今の貴方がと何も変わらぬ若者であったことです
戦時中を生きた人々に対しては、ともすれば神格化しそうなほどの思いを
持ってしまいがちなのですが、うむむ、そう言われれば確かにそうなのですよね。

370 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:03/11/18 10:21
大和武蔵・・・うらやましい。
大きかったんだろうなぁ・・
伊勢は居住性が悪いと悪評が高いですがどうだったんですか?

371 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:03/11/18 12:36
凄い・・・

海兵出身のお二方に野暮を承知で申しますが、
何らかの手記か何かをお書きになっては?
これはあの戦争に参加した方全てに当てはまると思いますが、
たとえ戦史に残るような重要証言ではなくとも、当時の
雰囲気や裏話など、当の本人にとっては大した経験ではなくとも、
我々にとっては非常に貴重な歴史そのものです。
今すぐ本になるとは限りませんが、100年後には当時を知る
貴重な文献として残るかもしれません。

376 名前:海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2 [sage]投稿日:03/11/19 23:07
こんばんわ。
一斉射撃を受けたので過去の日誌を探して
実家の方に戻っていました。改めて読んでみると人間関係への愚痴ばかりで
戦局悪化を憂う記述は19年11月以降しかないですね・・(汗)
368氏
ご理解願えれば感謝です。
一例を申し上げますと先話に上げた故宇垣中将などは菓子の食い回りという
今日伝わる話から推察できないような事を趣味にしておりました。
軍事に関する日記は残っていますが、名産菓子を食べまわった事も記録につけていましたよ。
興味は洋菓子にまで達しておりました。
370氏
軍艦伊勢は住み心地が悪かったのですか?私が質問したいくらいですね(笑う)
5日間の滞在で見る限りは、皆住み心地が悪いことを愚痴っているようではありませんでした。
371氏
なるほど。しかしながら、あまり印税を期待できなさそうですね(笑う)
こうして、すぐに返事をするネットワークの世界で話したほうが意義は大きいと思いますよ。
この場所は日本でかなり知的階級の高い方々が集っていると確信して、私もお邪魔しているわけですので
不用意に手記をだして、中途半端な共産主義達(仮称「知識人」)に批判されるよりも
ずっと話甲斐のあるここの方がためになるのではないでしょうか?

372 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:03/11/18 21:18
若輩者ですが先輩方のお話はとても為になります。
ありがとうございます。

373 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:03/11/18 23:24
>>369
うお、2ちゃんでこのような方に出会えるとは!!

不躾を承知でうかがわせて頂きたいのですが、『海兵七十期』と申しますと、
三四三空の 菅野  直 大尉や、「指揮官たちの特攻/城山 三郎 著」で有名になってしまった中都留 達雄 大尉
ともご同期でいらっしゃいますね?
もしよろしければ、このお二方の人となりなどお聞かせ願えれば幸いに存じますが。
(四百人を超える同期生の中、難しいとは思いますが)

また、沖縄特攻へ向かう大和隊と劇的な信号交換を行った、丹羽 正行 氏も、終戦直前に大尉ですので、もしかしたらご同期ですか?

375 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/11/19 09:54
海軍所属の艦艇での外部・外界状況を把握するのはどの様にしていたのでしょうか?
陸軍は、連合国のポツダム宣言を受けた放送をリアルタイムで聴いて、上級司令部へ
「何故返答しないのか?」との問い合わせを多数したそうなのですが、海軍ではまた事情が違ったのでしょうか?

377 名前:海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2 []投稿日:03/11/19 23:08
372氏
こちらこそ、現在どのように歴史が若者達の間で解釈されているかを
ご教授願えれば幸いです。
373氏
菅野大尉とお話した記憶があります。
確か敷地隅に展示してある40サンチ砲塔のあたりで
ラグビーの授業の合間にとりとめもなく話した記憶があります。
「海軍兵学校」ではありましたが、実際のところは規則正しい普通の学校でしたんで
とりとめて軍事を議論しあうことは少なかったです。
むしろ、海軍大学ならその限りではありませんが。
丹波氏も記憶にあります。とにかく気障な性格でしたね(笑う)
狂歌や川柳をよく口走っては顰蹙やら賞賛を受けていた記憶があります。
それがゆえにあの一幕を生んだのでしょう。
375氏
当時の艦隊編成および連合艦隊の組織形態を学ばれてみる事をお勧めいたしますが、
とりあえずは私の意見として、各戦隊や艦隊で意見統合を行って、
中央と交信しておりましたので、前線部隊が直接大本営なり軍令部なり
連合艦隊司令部に連絡すると言うことはあまりありませんでした。
(された方も、答える事も少なかったと記憶してます。)
ほとんどの場合はまず旗艦や方面軍司令部などに報告し、それが中央に報告されていましたので
終戦時も各司令官の判断で報告しなかったこともあるのではないでしょうか?

378 名前:海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2 []投稿日:03/11/19 23:13
あと更に中央からの電報を食う司令官もまれにおりましたので
連絡形態や上下関係が陸軍ほど明快ではなかったのではないでしょうか?
海軍は雰囲気と言うものが強く、意見の相違から上官に部下が
文字道理つかみかかる光景はかなりありましたが、特にとがめられることもありませんでした
というのも、全体の雰囲気がその部下に味方していれば掴み掛かられた上官の上官も
その部下の部下をとがめようとはしない風潮があったからです。
陸軍の場合は、ほとんどにおいて全体主義の風潮がありましたので
「上官の命令は恐れ多くも大元(略ス)」
の言葉が絶対でしたが、海軍の場合は別段そういうこともなかったので
あまりわけのわからない命は無視を決め込む事もかなりありましたね。

379 名前:海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2 []投稿日:03/11/19 23:18
更に続けます。
そういうわけから、海軍は上級指揮官になればなるほど、
作戦や戦略に疎い代わりに、人間関係の調整が神業に達する方が
大変多かったです。
之は日本海軍の利点でもあり欠点でもありました。
日露の役はこれが良く働いた好例であり、太平洋戦争はうまく機能しなかったのではないでしょうか?

380 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/11/19 23:26
>>379
>そういうわけから、海軍は上級指揮官になればなるほど、
>作戦や戦略に疎い代わりに、人間関係の調整が神業に達する方が
>大変多かったです。

 海軍もそうだったんですか…。良いことを聞かせてもらえました。
しかし、未だに日本はこの弊害から脱していないと思います。

381 名前:海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2 []投稿日:03/11/19 23:32
380氏
私は之は悪いとは思いません。
むしろこうであったからこそ日本は発展しているのだと思ってます
ようするに、組織内の人間が高い公共心を持っていれば
この様な組織形態は最高の物ではないでしょうか?
私は敗戦そのものよりも、こういった心の面が失われた今の日本をとても悲しく思いますね。

382 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/11/19 23:56
七〇期さま

米内大将、井上成美大将は阿川弘之氏の著作などで非常に高く評価されています。
私も日本を救ったのはこの方々の力が大きいと思います。
これらの方々に限りませんが、個々の将軍などに対する評価などお聞かせいただければ幸いです。
既にお話を伺った宇垣纏将軍のお菓子巡りなど、とても非常に興味深かったです。

それとポーカ派様は、お名前からして、ブリッジの方はお好きではなかったのでしょうか。

385 名前:海兵七十五期[]投稿日:03/11/20 08:15
みなさまおはようございます。
井上中将でしたら七十期氏のおっしゃられるとうり、我々の方が詳しいと思います。
こういう言い方は何ですが、中将本人がおっしゃられていたとうり
「海軍兵学校最後の『まともな』校長」であったと思います。
入学初期の頃は、きわめてリベラルな雰囲気を持たれ
戦闘教本や精神教本を完全否定され、
独自の戦略論を持たれる反骨精神の方と言う印象が強かったのですが
はっきりと偉大なる人物と認識するようになったのは、
在任中最後の2ヶ月間であります。
というのも井上中将は我々の入校から約半年のお付き合いでしたが
昭和19年8月をもって、次官へ転任されております。
19年8月という時期は、6月にサイパンが陥落して事実上の敗北が決定した直後で
その前後から、井上中将は今までの海軍兵学校校長がまず行わなかった様な事を
なされてから、転任なされていかれました。
何かと言いますと、宿舎で枕を並べて夜が明けるまで生徒と話されたり
(当然、その分隊には翌日寝坊したものが続出しましたが、特段処罰はされませんでした)
昼食時に食堂で、生徒とおなじ席に座り食事時間をはるかに延長して
ひたすら生徒の身の上話や猥談などや、またかと思えば
「万が一帝國に敗北が訪れるならどのような形か?また如何に復興するか?」などの話を
などといった海兵の本分を明らかに逸脱したお話を夕食の時間になるまで
ひたすら議論するようになられました。

386 名前:海兵七十五期[]投稿日:03/11/20 08:15
今思えばマリアナ失陥以降は明らかに「海軍軍人」ではなく、「政治家」や「実業家」を
養成される様な教育をなされるようになり、驚嘆し今更ながらに尊敬いたしております。
井上中将の在任中最後の2ヶ月間の海兵は明らかに戦後空間を醸し出しており
自分は亡き後の海兵が、どのような校長に率いられようともやがて必ず訪れる、
終戦(敗戦)時に精神までも玉砕精神に染まって、軽挙妄道に走らないように
先手を打たれていたように思います。
生徒の中には敗北主義と議論を吹っかける者もおりましたが、大本営が
隠匿する資料までも閲覧させてもらえましたので、一定期間後には
ほとんどの生徒が最早勝利の見込み一分もなしという現実を理解しておったと思います。
(中にはそのせいで精神衰弱に陥る者もおりました。通例から言うと、海兵ではそういった
『学習続行を行うに不適格なる状況に陥りし者』は情け容赦なく対向にするのですが
井上中将は「殺し合いをするなら退校だが、再建者なら少々軟弱者でも問題ないと」と結局退校には
なされませんでした。)

387 名前:海兵七十五期[]投稿日:03/11/20 08:30
七十期氏
おっしゃられますとうり、終戦時に一部潜水戦隊で暴動が発生いたしました。
多少記憶不鮮明ですが、確か16日だと思いますが
『終戦の勅命は肝族の陰謀!皇国は断固聖戦を貫徹せん!』
というような内容のビラを持って伊号潜水艦の乗組員達が決起を促しに参られました、
正直なところ最早戦争遂行が不可能な事は誰の目にも明らかでしたし、
彼らが大騒ぎするその背後に大破着低して大傾斜した重巡洋艦利根や青葉
艦尾が海面に没した戦艦榛名が文字どうり朽ち果てて座り込んでおり
海兵も一部機銃掃射を受けた状態で、正直戦闘する事そのものに我々も
嫌気がさしておりました。大騒ぎする彼らに、最後の校長であられました栗田健男中将が
「後ろにあるクズ鉄を見てよく考えろ!」と一喝され、その日は引き上げていきましたが
翌日に再び参られ、生徒の一部と怒鳴りあいになっておりました。
以外にも我々が終戦を主張した事に驚き、また怒りを感じているようでしたが。
話し合いで解決しそうもなく、一部の生徒は「カッターで乗りこんで実力行使しよう」などとさわいでおりましたが
「最初の実戦が同胞との戦いになるのはまっぴら」という生徒がほとんどでしたので、
結局参加はできないという書簡を渡し、敬礼して見送りました。
記録にはありませんが、一部の艦が停戦後回天で特攻を敢行したのではないでしょうか。

435 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/11/25 10:23
仙台大空襲に遭った祖父母の話を。
祖父は明治生まれで肺を患っていたので徴兵には遭わずに、
疎開で仙台に住んでいました。祖父母の住んでいた区域は幸い、
焼夷弾が落ちなかったので助かりましたが、隣の区域に焼夷弾の束が落ちたそうです。
が、銀行の金庫室に落ちたので分厚い壁の中で完全に燃えきったらしく、
延焼も無かったそうです。祖母曰く
「中の金やら証券やらは燃えただろうけど、まあその辺一帯の燃えなかった代金
 として考えれば、どっこいどっこいだろうね。」と笑ってました。

祖母が話してくれた焼夷弾の記憶は、
「まず大きな束がB29から落ちてきて、しばらくするとバラバラになってね、
 それが燃えてるから光の雨みたいだったね。それの音が凄かったよ。
 トタンの屋根があるじゃない、あれを竹ボウキで掃いたような「ザァー」って音だったよ。」
祖父は戦前からアメリカの文化が好きだったのと、どこか飄々としていて、
当時まだ珍しかったカメラを持っていたので、特高に目をつけられた事もあったとか。
あと、六角形の工業地帯用の焼夷弾の破片を拾っています。
祖父は空襲に遭った時に、前を走っていた中学校の先生の頭に焼夷弾が直撃して、
眼球や脳漿が飛び散るのを見たそうです。

448 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/11/27 12:06
家にはもう戦争体験を語ってくれる人はいませんが、祖父の弟の戦死状況を伝えた
上官から曽祖父に当てた手紙があります。社交辞令的なものかもしれませんが
当時の状況を知る一助になるのではと思います。(判読困難なところ空白)

拝啓

御令息知勝殿には十一月二日北部江蘇省灌雲県鎮頭庄附近の戦闘において
壮烈なる戦死を遂げられ候 国家の 家の  哀痛の極みにて謹みて
お悔やみを申し上げると共に御礼を申上候
頭庄附近の戦闘は近距離激烈なる戦闘にて倍  敵に対して激戦 る遂に
多大の損害を与へて之を撃破せるもので精強なる皇軍にして極めてよくし得る戦闘に御座候
御令息には分隊長として率先勇敢に戦闘を指揮し敵弾雨下の中に立ちて
敵を 撃中不幸にも一弾を腹部に受け遂に名誉の戦死を遂げられ申し候
戦場に屍を曝すは軍人の本懐とは云へ返す返すも残念に御座候
御令息は小沢隊に属して御出征以来常に謹厳誠実中隊家庭の模範たりし
のみならず幾十度の戦闘に於て最も重要なる照準手として正確無比の照準は
小沢隊戦力の中枢で数え切れぬ程の武功を樹立せられ特に昨夏澤 
攻撃における奮戦振りは小官も眼のあたり見ることを得て感銘今に及ぶも深く忘れ難きもの有之候
今や征戦二年有余知勝殿にも下士官に累進せられ小沢隊幹部の一人として戦闘
にね 又隊内薫陶に  一貫精励努力を続けられ候 此の度の出 にお
分隊長として蘇北の戦野に散華せらる 到り申  戦闘状況並に知勝殿戦死
の報告を受け万感胸に迫りて申上る言葉も無 な 赫々たる武勲と御尊父様
を始め御一同様の御心情を偲びつつ御悔み申上候       敬具

             高見部隊 八部部隊長   八部安太

                 ○○(名字)勝治殿 待史

追伸 小沢隊長より色々 持参せるそ  が
    不 のる   御遠慮なく御申越され度


452 名前:世界@名無史さん []投稿日:03/11/27 16:32
>>448
こういう戦死の弔電ってプライベートライアンで描かれたように
事務的に「多大な損失」「英雄的行為」を並べるだけなのかな・・・・。

453 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/11/27 23:13
>>452
弔電ではないよ、おそらく指揮官の自筆。
指揮官の部下に対する「最後の責任」と幹候校の教官が言ってましたです。

457 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/11/29 10:41
>>452
>>453
>>455
448ですがそうです。直筆です。軍事郵便で送られてました。

葬式の時の弔辞もたくさん残ってますが、そっちの方が
軍国的美辞麗句が凄いです。それなりに興味深いですが。
でもみな恐ろしく達筆です。まだ戦争が激しくなる前のためか、
陸軍大臣からのものもありました。
大叔父の遺髪や軍から貰った弔慰金が手つかずのまま残っていたり、
部隊の活躍が載っている新聞の切り抜きがあったり、
60年以上前のこととはいえ、それらを前にすると妙に現実感を感じます

475 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:03/12/08 17:21
母方の祖母。

終戦直前は女学生で福井の田舎の比較的裕福な自作農の娘だった。
かなりおてんばだったらしい。
もんぺ姿が奨励された時には京都の呉服屋にいって
もんぺを仕立ててもらったそうな。弟も国民服をそこで作ったそうな。
さすがに友禅とかではなかったらしいが、一般的な戦時下イメージとは
ちょっと違うよな。
戦中後も食べ物に関しては困ったことがなかったらしい。
米兵の捕虜の一団がしばらく道路工事みたいなことをしにやってきた
ことがあったそうで、英語の歌とかをみんなで歌って
結構気楽に働いていたように見えたそうな。

ただ、やはり田舎は田舎の悲哀があったらしく、
名古屋の親類の所に遊びに行ってホテルで飯を食ったんだが、
同年代の親戚の子がホットケーキなるものを注文してて、
それをはじめて見た時ものすごくうまそうに見えた、といっていた。
そのせいかどうかしらんが祖母は今でも
バターと蜂蜜たっぷりのホットケーキが好きだったりする。

476 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:03/12/08 17:34
その祖母と結婚する祖父の場合。

滋賀県の山間部の貧しい大工兼炭焼きの家に長男として生まれた。
負けず嫌いかつ強情な性格だが勉強も頑張ったみたいで、
中学に上がり奨学金をもらって宇都宮大の獣医科に進学。
卒業後軍隊に入り軍用の馬やらロバやらの面倒を見ていたそうな。
転属で満州に行かされるとか言う話が出ていた矢先に終戦となる。
実家近くの地方都市の職員になり、いろいろあって祖母と出会い、
公務員時代に作ったコネを使って銀行に金を借り、
ペットブームを見越して開業。酒乱だったが俺にとっては良い爺ちゃんだった。

477 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:03/12/08 17:48
父方の祖母。

北海道南部。東北系の開拓移民の末で、
あまり広くない農地を持った公務員の家に生まれる。
母方の祖母と同じ年なんだが、こっちの祖母は物資不足で苦労したらしい。
石炭が次第に手に入りにくくなり寒くて難儀した話や、
米食うが減ってすいとんを食うようになってすごく嫌だった話などをしている。
兄が鮭を密漁して闇ルートでさばいて糊口を凌いでいたそうな。
女学校には行かせてもらったが母親が若いころ死んで
継母との折り合いが悪かったらしい。
卒業後しばらく事務員をしていたがすぐ祖父と見合い結婚。

478 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:03/12/08 18:11
父方の祖父。

北海道旭川。祖母の先祖と同じ藩の屯田兵の末裔だったが、
その初代屯田兵の男が、旧藩のしがらみを嫌って更に奥地に入り、
幕末時に内職で関わっていた細工屋を旭川で開いたらしい。
祖父の父の代で三代目で仏壇や箪笥を作って職人も雇い、
そこそこ繁盛していたようだ。
ただ、祖父の父は放蕩者だったらしく、店を潰した上愛人に捨てられ、
旧道庁に勤めていた祖父の兄のところに転がり込み、
結局祖父の兄が戦争前後ごろは一家を支えるようになっていたらしい。

祖父自身は兄の家から大学に通い、学徒出陣の対象になり陸軍に入るが、
内地配属中に終戦。よく聞くしごきもそんなにはきつくなかったようだが、
訓練期間中には嫌いな教官がいたらしく、
同期の訓練生とささやかな嫌がらせをしたらしい。
戦後林野庁の職員になった。

479 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:03/12/08 18:20
ちなみに父方の祖父の家系の誰かがシベリア出兵に行っていたらしく、
捕虜にしたソ連の将校から個人的にもらった(タバコと交換したらしい)
銀製のマグカップが実家に現存。
ちょっと薄っぺらいがイングレーブが精緻で結構綺麗。
祖父本人は「露助」にあまり良い感情はないようだ。

480 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:03/12/09 14:46
仙台空襲に遭った祖母の話。
「広瀬川の一面に人間と馬の死体が浮かんでいて、
 焼夷弾の炎で燃えながら流れてたよ。本当に地獄絵図だった。」

祖父は勤めていた会社が全焼して
近くにあった防火水槽に黒っぽい物が浮かんでいたので
持ち上げてみたら焼け爛れた人間の頭部だった。

その祖父は東京生まれで関東大震災も経験していて
火災が鎮火したあとに街中を見に行ったら
死体がピラミッド状に積み重なっていたそう。
どうやら炎に巻き込まれた人々が、他の人や死体の下に潜り込んだためらしい。
そこら中の川や池にも焼死体や水死体が溢れていて
死体を引き揚げても引き揚げても膨れた死体が水底から浮き上がり続けたようです。

493 名前:480[]投稿日:03/12/14 13:41
その祖母に新しく聞いた話。

8月15日の敗戦の玉音放送直後に
狂信的な陸軍将校が仙台市内で「一億総決起」や
「白虎隊」のビラを配っていたそうです。
でも勝ち負けどうこうよりも、皆戦争が終わって喜んでいたので完全シカト。

それに6〜7月位から、仙台に駐屯していた兵士はワラジを履いて
銃がないらしく、訓練用の木銃か農具のようなものを担いでいたらしい。

492 名前:世界@名無史さん[]投稿日:03/12/13 23:09
父親に聞いた話だが、祖父は公務員だった。年が行っていたので、徴兵されな
かったけど、終戦間際に徴兵。ただし将校だったそう。少尉あたりだったはず。
将校になったらすぐに家に軍のトラックがやってきて、当時はまず手に入らない
牛の缶詰とか砂糖とかをおいていったそうだ。実際の戦いはしなかったらしい。

母の祖父は近衛師団の軍曹。背が高くて男前だったそうだ。中国にいったらしく、
その後除隊。戦争の話はしなかったけど、もって帰った中国のお金を貰った。

520 名前:世界@名無史さん[]投稿日:04/01/02 02:28
私の父は、弱兵で有名な「第8連隊」にいたそうです。2年と3ヶ月の軍隊生活で、
戦争が終わったので、助かった思いがしたそうです。2年3ヶ月の間、満州辺りに
約4ヶ月ほどいたそうで、列車の扉を少し開き、手摺のようなところにしがみついて、
小便をしたときに、中国の大地の広さに驚いたと言ってました。遠くの方にある
ものすごい小さな建物が、同じ位置にずうっと何時間も止まっているように見えたそうです。
列車は、ものすごいスピードを上げて進んでいるのは、すぐ傍の景色というか、体に感じる振動等
からも解っているのに、あの小さな建物は、通り過ぎる景色にはならないように見えたそうです。
どこまで行っても同じ画面が続くと、列車が止まっているような気分になるそうだ。恐ろしい
空間があることを知ったといってました。今年80歳になります。中国では、歩いてばかりで戦闘状況に
なったことが無いようです。(今の私が、ここにいるのも、そのおかげですが 何か?)
何かよく解らないうちに内地に戻され、三重で終戦を迎えたといってます。親父の部隊は、本当に
運のよい人ばかりで、ほとんど助かっているそうだ。第8連隊は、ある意味、無敵の連隊ではなかったか?

522 名前:世界@名無史さん[]投稿日:04/01/02 05:58
うちのじいちゃんは、昭和20年4月1日にアメリカ軍に撃沈された
阿波丸に乗ってて亡くなりました。
安全航行を保障されてた船だったのに・・・
ばあちゃんは、結局その後再婚しないで息子(俺の親父)を育てました。
後に遺品が回収された時、うちの名前が入った指輪が出てきて
ばあちゃんに還されたそうです(TVにも出たとか)
3年前にばあちゃん死んじゃったんだけど、もっと話し聞いとけばよかったなぁ・・・

549 名前:世界@名無史さん[]投稿日:04/02/20 23:56
近所に住んでた元貨客船乗組員の人から聞いた話(5年前に聞き取ったメモより)
軍事板にも書いたがこちらにも

その人が乗り組んでたのは600トン余りの貨客船、これが明治時代の蒸気機関船だった
低速で煙突からは黒煙を濛々と吐き出し、船体が不気味に軋む代物 武装は機銃のみ
その人は似たような旧式船や機帆船ばかり数隻で船団を組んで沖縄に向かったものの
煙突から黒煙を吐いてるため敵機群に見つかり、銃撃を受けた
「ドロドロドロ・・・」と機銃が船団を舐めるたびに周りの船が火を発していく
先頭の1000トン級の輸送船は弾薬に引火 轟音とともに火柱を吹き上げ真っ二つに折れた
右側を航行中の機帆船は同じく弾薬が発火したらしく、爆発とともに木っ端微塵になってしまった
その人の船も銃撃を受け、甲板上の構造物や荷物、そして人が目の前でバラバラに千切れ飛んでいった
そして機関部をやられたらしく「ゴォー」という音とともに船室のガラスが破れ
窓やハッチから蒸気が噴き出してきた
同時に転がるように機関室付近の生き残りが飛び出して来たが
全員頭顔が焼け爛れ海坊主のよう 甲板上には手足や内臓が散乱し目も当てられない
そのうちに積荷の弾薬が発火誘爆し手が付けられなくなったので、船長は総員脱出を決意
用意の筏を海中に放り込み、続いて生き残りは皆海中に飛び込んだ
筏に掴まりながら、爆発を繰り返し炎上する各船を呆然と眺めていたという
勿論船団は全滅 暗くなってから赤々と燃える船がやたら美しかったらしい
その人たちの筏は2日後近くの島(名前失念)に漂着 終戦後やっと帰ることが出来た

555 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:04/02/21 22:49
うちのばーちゃんに聞いた話。昭和20年に北海道室蘭がアメリカ艦隊から
艦砲射撃を受けた。俺が色々調べたら大和の砲身なんか作った
富士製鉄(現新日鉄)などの軍需施設を目標にしたらしい。
ミズーリやら混じっていてかなり強烈だったらしい。
当時ばーちゃんは花の17歳、製鉄所近くの配給所で働いていたんだが、
警報がなったので、急ぎ防空壕へ。最初大型の防空壕へ入ろうとしたんだが、
何故か気が変わって、少し離れた小さな防空壕へ非難したんだそうだ。
しばらく友達とガクブルしてたところ、凄まじい轟音がなって思わず
防空壕から飛び出した。すると最初入ろうとした防空壕が艦砲の直撃
を受けて酷いことになっていたそうだ。その時印象に残っているのが、
沢山の札束がパラパラと辺りに舞っていたことだそうだ。

これはあんまり関係ないが、当時の写真みせてもらった。
ばーちゃん、一人だけデカイ(W当時の女で164CMって和田アッコか
ちゅーねん。
そんなばーちゃんの作るカレーライスが大好きです。

556 名前:ういろう[]投稿日:04/02/22 00:40
私の祖父は学徒出陣で満州に送られました。戦争も末期でついにソ連軍が侵
攻して来てあちこちで激しい戦闘がおき、もちろん祖父も戦闘で敵兵を撃っ
たり、また逆に撃たれて、足に弾が直撃したりしました(祖父は獣医学校に
いたのでなんとか弾を自力で出すことができたらしいです)。
結局、日本の敗戦が決まると祖父のいた満州方面の部隊はソ連軍に降伏して
シベリアに送られました。いわゆるシベリア抑留というやつです。収容所に
行く途中でかなりの人が倒れたそうです。祖父は近くで倒れた人に持ってい
た角砂糖をあげたと言っていました。
収容所生活はともかく悲惨だったそうです。夜、トイレに行き、戻って来る
ともう自分の寝る場所がなくなる、それぐらい狭い部屋にたくさんの人が収
容されていました。その上、極寒の地で過酷な労働作業ということもあって、
死んでいく人が後を経ちませんでした。幸い、祖父は柔道をやっていたので
体力はあり、なんとか生き延びられました。数年後、帰国の日が来て無事に
祖国の土を踏むことが出来ました。
ある日、たまたま祖父が出かけていたときの事、町内を見知らぬ男の人が、
「○○さん(祖父の苗字)、満州で一緒だった○○さん」と訪ね歩いていた
そうです。後に分かったことですが、この男の人が先に書いた祖父が角砂糖
をあげた人だったそうで、その時のお礼をしに来たのだそうです。
そんな祖父も去年、他界しました。もうこの話は聞けませんが、私はこの話
を忘れません。
だらだらと長文を書いてしまい、すみませんでした。

558 名前:自転車小僧 ◆IBmI/K76EY [sage]投稿日:04/02/22 01:54
アチキの通っていた中学校の教頭から聞いた話
教頭は昭和20年の夏、新兵訓練で呉で訓練を受けていた。
8月6日、朝の訓練を始めてすぐに轟音がして地面が揺れ、顔を上げると広島方面
からきのこ雲が上がっていて、空が暗くなっていたそうだ。
訓練は中止され、しばらく待機。昼過ぎになって広島に爆弾が落ちて大きな被害
が出ているらしいと言うことで救援活動に向う。
広島市内が見える辺りまで来ると一面の焼け野原であちこちで黒い煙が出ているのが
見えすごい匂いがしていたそうだ。
市内に入ると小隊ごとに分かれ生存者の救出と死体の搬出をすることになったそうだが、
その教頭の小隊はかなり不真面目だったようで、頭が割れて脳みそが飛び散った死体は
拾い集めるのは面倒だからと、トタン板をかぶせて他の小隊に見つけさせるようにした
りしていたそうだ。
印象的だったのが、倒れた電柱の下敷きになった焼死体を見つけた時に電柱を取り除く
と今まで電柱がのってへこんでいた部分(わき腹)がぶーっと膨らみ、慌てて電柱をもと
どおりに戻して逃げたと言う話。
その教頭は直接原爆の被害はうけていないが、爆発直後の被災地を歩き回ったせいで被爆
し、原爆手帳を持っていた。この話を聞いた当時も冬に体調を崩して血を吐いたと言って
ました。

559 名前:世界@名無史さん[]投稿日:04/02/22 21:44
母親の話(故人)名古屋の覚王山近辺に米軍機が墜落した。それを聞いて見に行ったそうだ。
現場では、普通の人が、寄ってたかって「米兵の遺体」を棒で突付いていたそうだ。
熱田区の、白鳥橋<今もある国道1号線に架かる橋>には橋一杯に死体が並んでいた。と、其処を
通るたびに話していた。
隣の床屋の主人は、中国で死体を食べたと言っていた。

561 名前:自転車小僧 ◆IBmI/K76EY [sage]投稿日:04/02/22 22:13
爺さんから聞いた話。
爺さんは台北の国民学校で教師をしていたが、ある日米軍機が学校に向って
低空で機銃掃射をしてきたそうだ。
校舎の外にいる人がおらず被害はほとんどなかったが、機銃掃射をした米軍機
は余りに低空で飛びすぎたため立て直しが効かず校庭にあったイチョウの木に
翼を接触させ校庭に不時着したそうだ。
そこで爺さんはじめ学校の職員、近所の軍人などが飛行機を包囲し、操縦士を
捕獲した。その時の操縦士の姿はサンダル履きでパジャマの上にジャンパーを
羽織っただけと言うラフな格好でガムをくちゃくちゃ噛んでいたそうだ。
爺さんはそれを見て、日本は負けたな。と直感で思ったそうだ。
その後、その操縦士は憲兵にどこかに連れて行かれたが、数日して学校の雲梯
に吊るされていたそうだ。
無論、559の人がカキコしたようにみんな棒でつついたり叩いたりした、と言う
よりするように強制されたそうだ。

564 名前:世界@名無史さん []投稿日:04/02/23 16:10
うちの父ちゃんは大正15年産まれ
ワシはかなり年取ってからの子供なんだけど
今のうちに、戦争当時の話を聞いておこうと思うんだに
当時、実家は樺太の大泊郡字馬群丹というところにあって
じいちゃんが床屋をやっていた
徴兵で幹部候補生として旭川の駐屯地にいて、腰にサーベル,長いマント
な〜んていでたちで写真見るとかっこいいんだわ、これが
でも肋膜をわずらって病院にいるうちに所属する大隊ガ、アッツ、キスカ島に
・・・んでもしキスカにいたら玉砕してたって・・・今でも時々話してくれる
終戦後は英語がしゃべれたのでアメさん相手に通訳みたいなことをして
当時のビールとか毛布とかもらったんだって
なんせ戦争時は食べるもんがないもんで、一食にジャガイモ2個とか
砂の入った海泡麺とか食べてた
ロスケ、とチャンコロはいまだにキライらしい 笑

567 名前:世界@名無史さん[]投稿日:04/02/24 00:39
うちのじいちゃんの話
うちのじいちゃんは中学出たあと大阪湾沿いの造船所に就職した。
(小型ボート型の特攻兵器とか作ってた)
それで給料月30円だったんだって
(当時月15円あれば一人で暮らすのには充分だったらしい。)
それで終戦の日は休日だったので映画館で映画見て、外にでたら
玉音放送が大音量で流れてたって。
じいちゃんは終戦の年の10月に18歳になるからギリギリ徴兵免れた。
ちなみにじいちゃんの親戚は奈良の大地主だったので、
じいちゃんは戦争中白米のご飯しか食べたことないらしい。
そんなじいちゃんでも志願兵で特攻行こうとしたが
男5人の末っ子で、兄貴は全員兵隊に行ってたから
親に「跡取がいなくなるかもしれんからダメ」と
止められたんだって。
ちなみに今も元気でここ3年連続海外旅行行ってます。

ラッキーな人だ。

575 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:04/03/03 21:58
うちのばあちゃんは満州で電話会社で働いてた。
男性がいなくて(?)身長が高かったばあちゃんが
男のふりしてソ連兵に会社で応対したそうだ。
開放されたらしいが、「青酸カリ持ってて、いざというときは死のうと思った」
って言ってたなあ。
なんか生きるか死ぬかって覚悟を俺は持ったことないけど、やっぱ
こういう経験をしてるから強いと思う。

予断だが俺の高校は戦時中に修学旅行とかでスキーしに行って軍から怒られたらしい・・

576 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:04/03/04 20:38
うちのじいさんは陸軍で中国いったんだけど、食いモン
うまかったなぁ〜なんてのんきなこといってる。年金で
キャバ通いするし(W
じいさんを学校まで出してくれた兄さんが大和乗り組みで帰って
こなかったそうな。何年か前海に沈んだ大和がTV番組で写ってたけど、
それを見ていたじいさん、まるで別人みたいな怖い顔で見てた。
うちのエロじいさんの中では、戦争終わってないのかもしれない。

577 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:04/03/05 17:22
>>576
前に聞いた話だけど、どこかのもう痴呆出ちゃったおじいさん、
夕食とかの途中に突然、
「そう言えば○○(戦死した弟の名前)はどうした?まだ学校から帰ってないのか?」
とか言い出しちゃって家族を困惑させるらしい。
最初は家族の方(息子の嫁とか)も『○○おじさんは戦争で・・・云々・・・』とちゃんと説明してたんだけど、
次の日の夕方にまた、
「おい、○○(戦死した弟の名前)はまだ学校から帰ってないのか?」
と言うので、家族の方もしょうがなく、
『○○おじさんは今日はクラブで帰り遅いって。』とか言う様になったらしい。
(そう言えばおじいさんは「そうか、今日もがんばっとるのう。」とすぐ納得するので)

とにかく、ついこの間まで赤ん坊の人形を抱いたおばあさんとかも普通に居たしなぁ...。

578 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:04/03/10 01:19
うちのばあちゃんの話(関西)
日米開戦当時s16は物資も十分あって、牛肉だって食べれた(当時鶏肉の方が高い)
s18頃から物不足が感じられて終戦時とか結構な物不足だったらしい
ただ環境が良くてそれほど本当に食うに困る事はなかったみたい
朝鮮人は給料がいいから、内地によくきて、環境が良いからどんどんと内地に呼ぶから
あちこちに普通にいたし、当時日本国民ということで違和感はあんまりなかったらしい
ただ肉体労働やら中心で、給料もそんなには良くなかったが、それでも一杯来たらしい
差別は実際あったというか、一流企業が中卒高卒を雇わない、みたいなもんだろうね
外の食い詰め物や素性がわからないから、日雇いの肉体労働中心だったみたい
でもこれは常識であって差別と言えるのかといえば言えないと思うな
近所にいた朝鮮人とばあちゃんは仲が良くて、風邪を引いたときにはその朝鮮人が
心配して栄養がつくようにと野菜などくれたりしたそうだ


579 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:04/03/10 01:33
とりあえず世間で言われてる朝鮮人差別みたいな空気はあんまり無かった
少なくともばあちゃんの語った戦時の話じゃ、就労とかの差くらいか
ただ差別が無かったとは言えないが地域差もあるしひどいところじゃ
ひどい例もあったんだろうとおもうが、今の日本人にも朝鮮人にも
助け合ってやっていけた時期があったのを知り改心して欲しい
ばあちゃんの仲が良かった人は上に描いたように出来た人だったみたい

嫌韓の言う事も悲しいけどほぼ事実だけど、なんとかして仲良くやっていきたいものだ
戦時みたいな大変な時期でも仲良くやっていけたのにどうして平和になって
仲良くなれなく、揚げ足取りとかやるようになってしまったのかと思うと残念だ

580 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:04/03/10 01:49
追伸
10歳くらいの子供だったころは、戦争は良くないとか
反戦教育みたいな感じに当時の話されたが
(当時小学校の図書室にあったはだしのゲンを読んで
戦争の時の話を聞かせてとせがんだのが経緯で
子供だったのではだしのゲンをまるまる信じていたから
戦争って悲惨だったんでしょ?とか聞いたんだが)
20過ぎて、聞いてみるとそういう説教臭い事は言われなかった
思想とかじゃなく、孫とか家族を失いたくない気持ちで
小さい子供の頃は戦争反対を強調して過去の事はなしてくれたんだろうな
20過ぎれば大人だしそういう善悪じゃない方向で受け止める事が
できるから説教めいた当時の話をしなかったんだろうとおもった

585 名前:世界@名無史さん[]投稿日:04/03/13 00:14
私の知り合いの人は(昭和50年頃)勤めていた工場で腕を根本から落とす事故に遭いました。
激しい性格の人でしたが、会社にも文句も言わず、「この腕は悪いことをした腕。無くなって当然」と周りに話していたそうです。
聞くところに行くと、戦時中、大陸の方に行ってらしくて、たびたび村を襲っては食料などを調達していたそうです。
そんなに武器もなく戦況もよくなくて、村を襲うときは皆殺しにしないと、他のところに連絡されて、こっちがやられるとか。
それで、ある村を襲ったときに、子どもが2人ほど逃げて行くのがわかり、かわいそうなので、一瞬ためらいそのまま逃がした。とか
そしたら、案の定、敵が攻めてきたので肥壺の中に入って隠れて命拾いをしたらしいです。

602 名前:世界@名無史さん[]投稿日:04/03/28 22:09
わしの父親は海軍の予科練でした。小型潜水艦の乗組員でした。
中学の途中で、予科練に入隊した。奈良→宝塚、と移り、最後に瀬戸内海に移った。
その過程のどこかで、特攻隊に志願した。
そして飛行予科練習生なのに、小型潜水艦の乗組員になった。
「こう竜」というらしい。

計画では、母艦に乗せられ、アメリカ艦隊の近くまで連れて行ってもらい、そこで切り離され、潜航して敵艦に近づく。
そして魚雷発射。
でも、魚雷を発射すると軽くなるので、自動的に浮かび上がってしまうらしい。アメリカ艦隊のすぐそばなのに。
それからまた水を入れて潜航して、自力で戻ってくる…ことになっていたらしいのだが。
どう考えても、無理がありますよね。

体当たりではないが、特攻隊であるとのこと。
予科練に入ってから、志願したらしい。
ばあちゃんは、「親に黙って勝手に志願して」と言っていた。

609 名前:世界@名無史さん[]投稿日:04/03/30 03:05
最近、亡くなった祖父に聞いた話を思い出してみると、
どうやら、台湾かフィリピンで憲兵やってたそうです。
パイナップルが旨かったとか、バナナが旨かったとか、
踊りが楽しかっただとか、嫌な思い出らしきものはなかったそうです。
前線に出てなかったみたいなんで、
そんなもんかなって思ったのを覚えている。

もう一人の祖父は訓練中に終戦したので、出征したことはないとか。

611 名前:世界@名無史さん[]投稿日:04/04/11 02:59
609追加。

法要で機会があったので、祖父の日記を発見。台湾第六部隊所属と判明。
隊歌も載ってました。日記の随所に短歌があって、ちょっとびっくり。
帰国時に、親しかったらしき現地人の名前を挙げて、さらば、懐かしき台湾。
で締めくくり、家に帰ったときには、さぁ○○家(実家)の再興だ!と意気込んでいる。
切り替えが早いなぁ、思ったが、日記の後ろの方にあった、新聞の写真の切抜きに出てきた
東条英機氏全てに墨でバッテンが書かれていた。
じいちゃんの心情はいかばかりか。

661 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:04/07/02 13:00
10年以上前に近所の書店のお婆さんから聞いた話。
お兄さんが海軍士官で呉におられたので、戦時中家族で会いに行ったことがあるそうです。
その時お兄さんが
“もうすぐ出陣するが、この戦に負けたら日本はお終いだ”
と言っていたことを良く覚えているそうです。
お兄さんが言っていた戦とは、どうやらミッドウェー海戦のことだったらしく、お兄さんはそこで
戦死されたとか。
お婆さん曰く
“何となく、この戦争には勝てないと皆が感じていたようだったよ。
それに下級士官の兄にまで、次の戦は重要な戦だなんて話が漏れ伝わっているようでは
 いけないよね”
と言っておられました。
日本軍は、情報統制が甘かったという話を何かの本で見聞したことがありますが、戦時中の
情報管理について詳しい人がおられたら、是非とも教えてください。

669 名前:世界@名無史さん[]投稿日:04/07/07 02:02
私が小学生の時に戦争体験についての作文を書くため、父方の祖父に聞いたはなしです。
メモもないし、それまで聞きづらかったこともあって
その時1度しか聞いたことがないのでうろ覚えなんですが。

祖父は満州大学を卒業して、スパイのような事をしていたそうです。
当時なら機密兵とか言うのかな?偵察用の飛行機に乗る事が多かったそうです。
偵察用の飛行機というのは見つからないようにものすごい高度を飛ぶんだそうです。
しかしろくに気圧に耐える装備がついてる飛行機じゃなかったからものすごく揺れるし
気温を調整する機械なんて付いてるわけないから、痛いくらい寒かったそうです。

670 名前:669[]投稿日:04/07/07 02:17
私がふと、「日本は負けるって思ってた?」って聞いてみると
「そりゃそうさ。世界情勢を知ってたなら思うはずだ。」と。
どうやら終戦の大分前にはもう負けるのは確定してたんだそうです。
何年前には、と言ってたんですがよく覚えてないです。3・4年前だったかな。

終戦後、祖父は偵察をしていた事のためかあったのか、
位置で言えば今のロシアにある収容所に収容されたそうです。
ご飯は毎日じゃがいもばっかりで、重労働をさせられ、
所内は伝染病がはやって仲間や祖父もかかり
高熱と下痢の続くつらい日々を送ったそうです。
祖父はその時を思い出すのかジャガイモを絶対食べません。

685 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:04/07/12 19:31
 曾祖父さんの弟が満州で商売をしてて、その関係で祖母も満州に行ってた。
満鉄のお偉いさんの家(奥さんがものすごいけち)で行儀見習いしてたけど、祖母は結婚の為に帰国。
曾祖父さんの弟はそのまま終戦まで満州にいた。豪放磊落な人で、使ってる現地人に炊き出しして
ご飯食べさせたりして面倒みてた人で、現地の人に「ジャングイ」と呼ばれて慕われていたそうだ。
日本の敗戦が伝わると、それまで現地人を苛めていた日本人は、現地人が沢山乗った人力車を
裸足で引かされたり、仕返しされていた。曾祖父も八路軍に捕まって殺される所を、世話をした現地人が
庇ってくれて、無一文になってなんとか日本に戻ってきた。

 祖父は大正末に徴兵されて海軍に。横須賀の航空隊で飛行機の整備してたり八雲でオーストラリアまで
行ったりした人だったけど、除隊して戦時中は水力発電所で働いてた。
たまたま人手の足りない部署にいたので戦地には送られなかったけど、本当なら真っ先に出征させられて
戦死してたといつも行ってた。
訓練航海の写真が家に残ってて、戦艦の甲板を高いところから撮った写真とか、当時のメルボルン市内の
様子とかいっぱい映ってたな。全員で撮ってる記念写真では、真ん中に三毛猫(船のお守り代わり?)が
ちゃんといて、しかも嫌がって動くのを周りの訓練生達が押さえ込んでる感じだった。

738 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:04/08/06 23:59
母方の祖父母→北海道のものすごい田舎で農家
戦争だからといって特別食い物に困るといったことはなかったみたい。
じいさまは身長が足りず徴兵されなかった。
家に居た農業で使っている馬が軍に徴収されたらしく
「あれはいい馬だったなぁ」とじいさまが言っていた。

父方の祖父母は、祖父が行動に問題がある人で毎日酒ばっかり飲んで働かず
酒の飲みすぎで身体がおかしくなり病気が原因で徴兵されず。
そんなこんなで家は極貧。終戦時、父は7歳。
アメリカ兵に戦争孤児と間違われたのか、父と父の兄二人みすぼらしい格好で
アメリカ軍のジープ通過時にボケーと突っ立って眺めていたらいきなり停止して襟首をつかまれ
シャツの背中やズボンのポケットやらモノが入るところ全てに
缶詰やガムを突っ込まれた記憶があると言っていた。
札幌(石狩)にも空襲があったみたいで、その時は燃える燃料保管庫(のようなところ?)を
家の屋根に上って見学。花火でも見ている気分だったそうです。

744 名前:世界@名無史さん[]投稿日:04/08/15 04:31
私の祖父は徴兵され、終戦まで4年間中国へ行っていたそうです。母から聞いた話なのですが、
祖父は腹部に銃弾を受けてしまい、とても一人では歩けない状態でした。
そして祖父の傷は治らないまま終戦を迎え、祖父達の部隊も日本へ引き上げることになりました。
しかし、一人で歩けない重症兵士は移動の際には置いていく事になっていたのでしょうか。
この時、祖父の枕元に毒が用意され、飲むように言われたそうです。しかし、その時
上官が「だめだ!」と止めに入ったそうです。実はその日に日本から、重症の者も
一緒に引き上げてくるようにとの指令が届いたのだそうです。その指令が届くのが1日でも
ずれていたら二人の伯父、母、兄、私の5人はこの世の存在も知らないままだったっ事に
…祖父も今年で90歳になりました。あの時の弾はまだ体の中に残っているそうです。
私は18になったばかりですが戦争を身近に感じた話でした。
長くなってすみませんでした。

747 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:04/08/15 18:41
長野から満州国更級郷に行った祖母の姉は
黒龍江省のソ連国境付近で1945年10月に
自分の3人の子供の首を絞め、その他の女性と老人と共に手榴弾で自決した。
関東軍はすでに撤退し、終戦の事実も告げられなかったために男性はソ連軍に向かい全滅。
大叔父は教師をしていたので、大叔母達は学校で自決したらしい。
地元では75人が開拓団に参加したが、生還できたのは2人だけだった。

もちろん遺品など残るわけも無く、曾祖母は弔いの為に敷地内に母子地蔵を建立。
余談だが、その母子地蔵に拝んだ夫婦に子供が授かったという
御礼が何件かあり、地元の新聞にも取り上げられた。

751 名前:世界@名無史さん[age]投稿日:04/08/16 08:20
親父は大正15年4月20日生まれ。

で、昭和20年4月に招集され、茨城県北から歩きで宇都宮まで行って入営した。
3ヶ月の軍事訓練を受けて、そのまま宇都宮に配属。
一応商業簿記ができたので経理係になった。調度の仕事だったとか。

しかしあまり仕事はなく、あいかわらず軍事訓練ばかりやっていたそうだが、
上官の朝鮮人伍長がとにかく嫌な奴で、それ以来死ぬまで朝鮮人嫌いだった。

終戦の報が伝わって事務方以外はさっさと帰郷してしまった。
1ヶ月ほどして進駐軍がやって来て、帳簿と在庫品を渡すとき確認したら、
先に帰った連中が勝手に持ち去って在庫が4分の1しかなくて、大急ぎで帳簿を
訂正したそうだ。もちろん自分らの持ち帰る分も隠した上で。

帰る時、恨まれていた上官はほとんど半殺しの目にあっていたそうだ。

826 名前:世界@名無史さん[]投稿日:04/09/25 23:12:18
日中戦争の話でもいいのか?

今年、戦時中は中国戦線に行っていた祖父が珍しく戦争体験を語ってくれた。
夜間行軍していたら前方に見えていた木のような影が直前に敵の兵士だと分かり、
真っ暗闇の中銃撃戦が突然始まったとか、
中国人の家に押し入って窓の桟の下のレンガを取り外すとそこにお金が隠してあり、
押収して食べ物を買ったとか。
戦後は上海にいた、というので自分も上海は観光で行ったことのある経験から
当時の上海の町並みについて聞いてみると、「ずっと牢屋にいたから知らない」
とのこと。回虫に悩まされて大変だったそうだ。

833 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:04/09/29 16:37:00
うちの祖父は肺病で痩せていたから甲乙丙丁戊の全てにひっかからずに
「徴兵免除状」を持っていたよ。かなり珍しかったらしい。でも92歳の大往生でした。

曽祖父は日露戦争では砲兵隊所属、軍曹だったらしい。
軍帽と鉄兜の影響で、完全に禿げ上がってしまったそうで。
ある戦闘で武勲を立て、中隊長から特進などの褒章を打診されたが
「老父母が心配なので帰還させてほしい。」と申し出て、2年間繰上げで無事生還。

843 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:04/10/09 01:36:44
ちょいと多板ではデリケートかと思うのですが、このスレは理性的に
進行している様子なので私も。
私の本籍は山陽地方の田舎。祖父は代々の庄屋で、田舎らしく
なしくずしに戦中戦後と田舎の村長の様なものでした。
盆の時期には祖父の家に一族郎党のみならず、近在の人たちも
集まって法事と宴会をするのがならわしだったので、私も東京から
父母に連れられて毎年行っていました。
で、ある年。なぜかその年は酒が入りすぎ、年配の近在の人たちが
戦時中の話を始めました。私は小学生だったのですが、オジサンたちに
気に入られていたので話を聞くハメに。
どうやら、この辺りの人たちは大陸に行った人たちが大半だった
様で、中国の話になりました。(長くなりそうなのでわけます)

844 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:04/10/09 01:46:46
しかし、その内容は小学生の私にはかなり衝撃的でした。
一番印象に残っているのは、人の良さそうなオジサンが、
「坊、知ってるか?銃剣って重いんだぞ。人を寝かしといて(自分が)
立ってこう、ストン、と落としてやるだけで鍔までグッサリ刺さる。」
と語り、周囲が一斉に笑い声を上げたときでした。
それ以外にも、どうやら捕虜を殺したときの話を(あのときは一発で
断首出来なかった、失敗した云々)笑いながらしていました。
また、女性陣が別室で食事の支度をしていたのですが、小学生には
わかるまいと思ったのか、強姦の自慢話もしていました。

845 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:04/10/09 01:52:00
成人してから、親父とその話をしたことがあります。
親父は戦時中に小学生。戦後も、子供の頃からそんな話を聞かされて
育ったそうです。
本当にド田舎なので、あの世代は戦争中に兵隊としてしか村の外に行っていない
んだ。だから倫理観が青年期に戦争の中で体得したモノから変わっていない、
というのが親父の感想でした。親父はそんな土地柄が嫌で、発憤して
勉強し、大学に入って地元を離れたのだそうです。

とまあ、これだけですが・・・
現在の自分の意見を排除しようと出来るだけ当時の気持ちだけを書いたら、
どうも小学生の作文のようになってしまいました。失礼をば。

870 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:04/11/30 09:51:15
大叔父・大叔母の話
農家の4男だった大叔父は、開拓団に入って満州に渡った。
しかし、自分達が入った時は既に立派な農地が広がっていて、これって開拓って
いっていいの?この畑拓いたの誰?と疑問に思ったのだそうだ。
あとから、少し離れた貧しい満人(漢民族)集落の人々の畑だったことを知った
が、まあ日本人は「偉い」んだし、畑は日本人の感覚では桁外れに広かったの
で、少しぐらいただで貰ってもいいんだろうと思い、あまり気にしなかったのだとか。
満人とは普段から付き合いもあり、一緒に作業をしたこともあった。特に女性
たちは日本人の家にお茶に来ることが多く、日中混合の片言言語で会話して
いた。調度品を指差して、「いいな〜いいな〜」と何度も口にし、羨ましそうだった
という。
近くの町に行くと市が立っていて、白系ロシア人や蒙古人も闊歩していた。蒙古
人は物凄くプライドが高かった。

昭和20年8月、ソ連軍が侵攻すると、満人の態度が一変した。日頃満人に
対してきつく当たっていた日本人の家からは、問答無用でどんどん家具が
運び出され、畑も荒らされた。満人と仲良くしていた人に対しては、そんなこと
はなかったそうだが、やんわりと「その家具売ってくれ」と持ちかけられ、安い
値段で引き取られたりもしたそうだ。

その後、ソ連軍がやってくる。大叔父は捕まってシベリアに送られ、大叔母は
2人の子供とともに逃げ延びるが、男の子は途中栄養失調で亡くなった。
その辺の話だけは、どんなにせがんでも教えてもらえなかった。

884 名前:世界@名無史さん[]投稿日:04/12/17 01:15:43
うちの爺ちゃん元陸軍士官
最近になって戦時中のことを文に纏めてることを知った
読んでみたらすげー面白かった
ついでに兵学校の卒業アルバムも見せてもらった
誰が誰だかわからなかったが
卒業に当たっての一言に
「ワシントン入城しルーズベルトの首を取る」と
書いてあってビックラこいた
いつも温厚な人だったから余計に。

最近某フェスタで日本刀を差して記念撮影した爺ちゃん
昔軍刀つけてた成果一番様になってってかっこよかった。
こんな226の当日の東京のことを生の目で見て記憶してるような時代の人も
年齢的にもうきついんだろうな、とおもうと
そろそろ悪い意味でもう人波乱きそうな気がする

生き字引きみたいなもんだしね。長生きしてください。本当に。
うちの一族で一番まともな人なんです。

887 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:04/12/17 06:25:10
近所の住職から昔聞いた話。

戦争も末期だったそうだ。
おそらく1945年の6月の話だったように思う。

あるとき やはりB29の大編隊がやってきて爆撃をしたんだと。
そのとき空襲警報を聞いて、40人ほどの人が
鉄道のガード下のトンネルに逃げ込んだらしい。
ところがその両入り口にひとつずつ爆弾が落ちて
そのトンネルに逃げ込んだ人は全員死んでしまったのだと。

その住職さんのお寺は山にあって、境内のがけに防空壕があったから
空襲警報が鳴ったときたくさんの人たちがそこへ逃げてきたらしい。
爆弾が投下されるとまるで雨のような「ザァーーー」という音が鳴るのだといっていた。

空襲が終わったあと、前述したガード下のトンネルで亡くなった40数名の人が運ばれてきたのだが
(確かうろ覚えだが)体がパンパンに膨れていたのだと。


その話とは別に、空襲の時に、体を守る方法なんてものも教えてもらった。
確か、耳の穴と鼻、口あたりを手でガードし、背中を丸めてお腹をガードするという方法だった。

897 名前:世界@名無史さん[]投稿日:05/02/01 04:29:17 0
戦中、 うちのじいさんは満州で零戦を製造していた工場で働いていた。
ある日重慶に滞在していたアメリカ軍の爆撃機が工場を空襲しにきた。
じいいさん達は以前から軍から指導されていた通り、 町一帯につみあげていた廃
タイヤに火をつけて煙幕をはったらしい。爆撃中、ジイサン 達は防空壕の中っで
『煙幕におおわれた工場を爆撃するのは無理だろう』と思ったらしい。が、爆撃
が終わり外に出てみると、 見事に工場だけが破壊されていた。 あとで分かった
のがアメリカ軍はレーダーを持ち合わせていたんだと。 技術力の差を見せつけら
れた戦争だったとさ。

926 名前:世界@名無史さん []投稿日:2005/04/11(月) 11:32:48 0
うちのじいちゃんの話でも

京都の寺院の末っ子で無類の酒好き、学生時代は浴びるように呑んで道で寝るなんてことは日常茶飯事だった
心臓が弱く徴兵検査で50歳までは生きられないと宣告されたのに合格
友人もベタに醤油一気飲みを敢行するも見事にばれて合格したらしい

何故か諜報関係の部隊(当時の軍制に詳しくないのでスマソ)に配属され旅順へ
祖父いわく食糧事情は良くなかったが飢え死にするほどではなかった
戦場では卑しい奴から死ぬとも言っていた、実際もぬけの空になった中国人の家で月餅を発見し食った食い地のはった同僚が死亡
井戸や残した食料に毒が入れられているのは常識だと

その後戦闘で足を撃ち抜かれ野戦病院ゆき、入院してるうちに終戦し生還
しかし兄弟二人は南方で帰らぬ人に、遺骨も戻ってないらしい
戦後は婿養子に行き税務署の仕事まで世話してもらった、野戦病院で使った薬(『ホルムス』という傷薬)が効くとずっと言ってた
今でも我が家の救急箱の中にはホルムスが

戦争のことはあまり語りたがら無かった
心臓病で入院、術後なかなか麻酔から覚めず夢うつつの世界を彷徨う
どうも若い頃に戻ってたらしく「戦争は嫌だ!」だと叫んだり
見舞いに訪れた親類を憲兵と勘違いして追い返したり、手錠を掛けられたような仕草をしたり

よっぽど戦争が嫌だったらしい、うちの祖父のレベルでこれだから南方に行った人の
苦労は計り知れない

そんな祖父も数年前に数年前に医療ミスで鬼籍に入った
もっと話聞いときゃ良かったと

939 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:2005/04/20(水) 22:17:44 0
うちの祖父は日中戦争の頃に満州に居た。
私が12の時に亡くなったので本人からは聞いてないけど、
早いうちに左手と足(どっちか判らない)に被弾し、
左手小指が動かなくなって足にも少し影響が残った上、
親戚の家の長男として養子に入ったのでその後は出征せずに済んだとか。
数年前に遺品の中から満州に居た当時の手帳が発見された。
それによると昭和14年10月8日に漢口に上陸したらしい。
祖父は絵描き志望だったので絵が沢山残ってた。
満州の各地の風景や史跡のスケッチ、屯所のスケッチに
屯所に自分が生けて飾った綿花のスケッチ、風呂に入ってる風景に
分隊の中国人苦力の肖像(3枚もあった。描いてやる、というと
タバコ加えてポーズとってくれたらしい)とか
慰問が来た日に大火事があった、とか。
陸戦病院の病室の窓や屋上からのスケッチもある。
今生きてたら、色々聞いたのにな。

ちなみに曽祖父は痔がひっかかって徴兵を免れたけど
乗る予定だった艦が沈没してほぼ全滅だったそうで。
祖父も本土に帰った後に戦争が激しくなったとかで
二人とも運が良かったとしか言いようが無い。

944 名前:世界@名無史さん[]投稿日:2005/04/21(木) 16:17:31 0
小学校の校長の話を3つ覚えてる。
確か満州での話だったと思う。
映画館に行くと座席の傍にジュース?の瓶が置いてあることがよくあったんだって。
でも大人に触っちゃいけないと言われていた。火炎瓶みたいに色々仕込んであって
触ると爆発したらしい。抗日戦士が仕掛けてたのか?

また学校では爆弾の防ぎ方を練習していたそうな。
教室の一番後ろに机とか置いて、予告なしにその上から教師がドーンと飛び降りる。
そしたら生徒は即座に耳と目(鼻も?)が吹っ飛ばないように指で強く押さえて備える。
ビックリして思わず後ろを振り返ったりする子がいると、生き残れないぞと
すごく怒られたらしい。これ、校長にやらされたけど子供心にびびった。

地元は北陸の、空襲がほとんど無かった所だけど、広島で働いていて
被爆したあと列車に乗って命からがら帰ってきた人もいた。
でも結局火傷がひどくて間もなく亡くなられた。
原爆投下後、他県に流出した人って多いのかな。

ここを読んでて思い出したので書いてみたが、読みづらくてごめんなさい。


920 名前:世界@名無史さん[sage]投稿日:2005/03/27(日) 22:59:03 0
口の重い祖父(昭和二年生・従軍されず)を
酔わせて話を聞いてみた

「物心ついてから、ずっと戦争が続いていたから
戦争がなくなるなんて、考えもしなかった」

平和ボケの自分、結構ショック・・・

ブログパーツ

     
  1. 投稿日:2008/04/10 07:46[ 編集 ]
  2. すげぇ。。。
  3. 投稿日:2008/04/10 07:46[ 編集 ]
  4. 歳がばれそうだが^^;;
    私の父は戦前生まれで、まぁ結果ギリギリ従軍しないで済んだのだが
    旧制中学卒業と同時に、予科練入隊〜訓練中に終戦だったらしい。
    戦時中は田舎だったので食料とかには苦労しなかったらしいのだが
    都市部の空襲後に通過