引用元:世界史板「【不遇】栄光なき天才達の名前を書き込んでいくスレ」
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1122031489/
1 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2005/07/22(金) 20:24:49 0
エヴァリスト・ガロア
13 名前:
世界@名無史さん[sage]投稿日:2005/07/22(金) 21:20:40 0
バド・パウエル。ジャズピアニストでセロニアス・モンクの弟子。
精神を病んでしまった。
18 名前:
世界@名無史さん[sage]投稿日:2005/07/22(金) 21:48:54 0
ニルス・ヘンリック・アーベル
19世紀ノルウェーの数学者。論文を無視されまくったあげく結核で26歳で死亡。
26 名前:
世界@名無史さん[sage]投稿日:2005/07/22(金) 22:14:41 0
アラン・チューリング。
コンピューターの原型を作りながら同性愛者と噂され、自殺に追い込まれる。有名かな…
28 名前:
世界@名無史さん[sage]投稿日:2005/07/22(金) 22:32:12 0
リチャード・ブローティガン。詩人。
晩年は不遇で、80年代にピストルで自殺。
残されたのは、書きかけの詩、それに、二、三ドルとウイスキーだけだったとか。
42 名前:
世界@名無史さん[sage]投稿日:2005/07/22(金) 23:41:25 0
有名だが、栄光はつかめなかったという意味で、
19世紀の作曲家フォスターはどだ?
たしか晩年は貧窮し、30代で亡くなったと記憶しているが。
55 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2005/07/23(土) 20:29:55 0
ニーチェは本当に悲惨だな。
自分の作品が賞賛を浴びていた時には精神障害で、自分への賞賛など
知るよしもなかった。
ある意味、師匠のショーペンハウエルとは対照的な人生。
65 名前:
世界@名無史さん[sage]投稿日:2005/07/25(月) 09:30:57 0
李膺
後漢の人、政治家・将軍として
数々の功があり、人々の尊敬を受けていた。
この人に認められることを登竜門といい、
御者をするだけでも名誉に思われた。
しかしこのように世の信頼を集めても
宦官の讒言により罪を着せられ獄死させられた。
68 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2005/07/26(火) 22:32:52 0
トマス・ニューコメン
ドニ・パパンの真空エンジンが、蒸気の液化による負圧を利用していた
ためにまともに動作せず、それを改良したトマス・セイヴァリもかろうじて
連続動作するエンジンを作ったに過ぎなかったが、逆転の発想で蒸気の
気化による正圧を利用するエンジンを発想し、初めて実用に耐える
蒸気エンジンを完成させた。
実際に、パパンのエンジンは模型でしか動かず、セイヴァリのエンジンも
『実物大の模型』以上の物ではなかったが、ニューコメンのエンジンは
イングランド各地の鉱山で実際に使用された。
そういう意味で、『蒸気機関の発明者』であることに疑問の余地は無い・・・
のだが、このニューコメン機関をジェームズ・ワットが改良して、効率を
飛躍的に増大させたために、世界中のニューコメン機関はワット機関に
瞬く間に置き換えられてしまった。
いまや、蒸気機関はワットが発明した、と思い込んでいる人は多い。
73 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2005/07/28(木) 20:22:32 0
チャーリー・パーカー
モダン・ジャズの神様。少年時代から麻薬中毒で、わずか34歳で死亡。
でも麻薬に苦しみながらも、やめようとは全くしなかったらしいし、
死に際も直前までテレビを見て馬鹿笑いしてたらしいから、スレタイにはあわないかも。
74 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2005/07/28(木) 22:29:58 0
エリシャ・グレイ
電話を発明し、勇んで特許を申請に行った・・・
のはアレキサンダー・グラハム・ベルが申請を終えた2時間後であった。
78 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2005/07/30(土) 23:56:25 0
>74
実際はすさまじい死闘があったらしい。
以後もグレイは発明でかなりの資産を作った模様。
トレビシックやフィッチに比べればましかと。
75 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2005/07/28(木) 22:51:37 0
ジェームス・ジェマーソン
天才ベーシスト。黄金期のモータウンを支えただけでなく、ベース・プレイヤーとして
絶大な影響を後世に残す。彼がいなければ現代音楽史は違ったものになっていただろう。
しかし当時はバックバンドのプレイヤーをクレジットする習慣がなく、スティービー・ワンダー
マービン・ゲイといったフロントアクトのような評価を得ることができなかった。
天才ゆえのプライドと評価の低さのギャップからか、自虐的にドラック、アルコールに走り、
70年代半ばからは急速にプレーからその輝きを失い、ボロボロになったあげく83年に没。
「'60年代初め、ボクはウッドベースからエレクトリックベースに持ち替えた。ウッドベース
を弾いている時にはチャールス・ミンガスから一番大きな影響を受けてたけど、エレクトリッ
クベースを始めてからはある人物の演奏を聴くようになった。後になってそれがジェームス・
ジェマーソンその人だと判ったけど、当時は誰も知らなかった」
ジャック・ブルース
84 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2005/07/31(日) 02:50:00 0
ギュスターヴ・モロー
19世紀後半の画家。象徴主義のさきがけとして今では高い評価を受けている。
しかし以前は、国立美術学校教授としてルオーやマティスを育てたことから、
「教育者としては優秀だった」というのが一般的評価だった。
エルンスト・エデュワルト・クンマー
19世紀後半の数学者。ガウスが証明した「2次剰余の相互法則」を拡張した
「高次剰余の相互法則」を得ようとして、数の概念を拡張した(理想数)。
しかし現在ですら、「フェルマー予想を証明しようとして失敗した人」という
誤った評価を受けることが多い。
91 名前:
アントーン・V・ヴェーベルン[(´〇ゝ〇)]投稿日:2005/07/31(日) 10:20:06 O
[1883〜1945]オーストリアの作曲家。
生涯の全作品がLP4枚に収まってしまうという『超省エネ』作品を書き続けた。
師シェーンベルクの米亡命後、新ヴィーン楽派の孤塁を守ったが、
オーストリア併合で失職。長男は戦死。
疎開先の娘の家の前で米軍憲兵に撃たれて死亡。
92 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2005/07/31(日) 10:39:45 O
ジャック・マイヨールとエンヅォ・マイヨルカ
大ヒットしたベッソンの「グラン・ブルー」で有名な二人の天才ダイバーだが、映画の影響が大きすぎた為、実像と随分違って理解されている。
ジャックは素潜りで始めて初めて深度100mに達し、研究の対象にもなり、哲人的な発言で様々な講演もこなしたが、
実際の彼は無類の女好きで、拝金主義者であった事は意外に知られていない。浮気のスキャンダルでメディアと訴訟騒ぎを起こした事もある。
日本にも毎年のように訪れていたが、映画で得たピュアでクリーンな名声をいいことにナンパ三昧だったとか。
弟子の女性(もちろん愛人)を奪われた為、悲観して首釣り自殺した。
93 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2005/07/31(日) 10:50:45 O
一方のエンヅォ・マイヨルカだが、非運の天才の称号が合うのは彼の方だろう。
実際にジャックと親交があったのは事実だが、フランス人監督が徹底してフランス人を主役に据えた為、体のいい脇役のイメージが固定してしまった。
作中ではイタリア人のマザコン気質を揶諭するようなエピソードや、実際はジャックを上回る記録を出しながら、それもジャックの温情で勝利した事にされている描かれ方など、散々な扱いをされている。
一番の誤解は作中で彼が死んだ事になっているため、それをそのまま信じている人が少なくない事だろう。実際の彼は今でも健在である。
協力したのにもかかわらず、凡庸な監督に酷い描かれ方をした映画は「観た事がない」と今でも突っぱねている。
94 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2005/07/31(日) 10:58:10 O
113 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2005/08/01(月) 22:44:11 0
李陵
前漢の武将。わずか5千の兵で3万の匈奴と激闘を演じ、善戦しつつもついに降伏。
李陵の武勇に感嘆した匈奴の長、単于は李陵に部下になるよう勧めたが李陵はこれを断った。
が、漢の武帝は降伏を裏切りと誤解し、李陵の一族を皆殺しにしてしまう。
このときただ一人李陵を弁護したため、宦官にされたのが司馬遷である。
114 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2005/08/02(火) 00:24:25 O
>>113李陵といえば、親父だか祖父だかも確か非運の武将だったんじゃなかったっけ?
立派な人物だったが、扱いが悪くて降格させられたりして、抗議の自刃だかしたような。
115 名前:
蘭太郎 ◆pkn9C32mG2 [sage]投稿日:2005/08/02(火) 01:07:55 0
>>114李陵は「弓聖」李広の孫です。ただ李広は抗議というより、進軍が遅れてしまった
ために責任を取る形で自害したわけですが。
127 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2005/08/08(月) 20:04:18 O
グレン・グールド
その演奏が、宇宙船ボイジャーに人類の遺産として搭載される程の天才でありながら、
作曲家としては、ほとんど曲を完成させることができなかった。
そのため、天才的かつ大胆奇抜な解釈で古典の楽曲を再生させていたにもかかわらず、
「自分は本当には何も創造していないのではないか」と相当悩んでいたようだ。
「僕のような人間は、実は誰にも相手にされていないのではないか…」という言葉を残して51歳で孤独のうちに没。
129 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2005/08/08(月) 20:45:03 0
>>127バッハのチェンバロ曲やオルガン曲をピアノで演奏したLPを持っているが、もう二度と聞く気がしない。
聞きようによっては馬鹿にされているように思える。
グールドの演奏ではないけど、ブランデンブルク協奏曲五番のチェンバロがピアノになったのもある。
演奏はうまい。しかし、しかしである。パロディ演奏を聴いているのではないのだ!
132
名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2005/08/08(月) 22:04:35 O
>>127
グールドといえばコンサートは一切やらないとか、夏でもコートを手離さないとか、
いつも手袋をして、演奏の時もお湯で手を暖めてたとか
天才ならではの奇行癖が有名だよね。演奏は天才だったが、確かに彼の書いた曲にはロクな物がないらしい。
130 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2005/08/08(月) 20:47:23 0
ハンス・フォン・ビューロー:ベルリンフィル初代指揮者
リヒャルト・ヴァーグナーのただ一人の弟子。
ビューローはそもそも大学で法律を学んで弁護士になるつもりだったが、
ヴァーグナーにあこがれて音楽の道を志す。ヴァーグナーの弟子として、
師のオペラ作曲の助手を務める。
ヴァーグナーはピアノで音調を確かめながら作曲するスタイルだったため、
あの「マイスタージンガー」はビューローの助けがないと事実上作曲できなかった。
後にフランツ・リストの娘コージマと結婚。ところが妻がヴァーグナーと浮気して
しまい、バイエルン中を巻き込んだ大騒ぎとなる。そのため、意に反して
ブラームス派にリストアップされてしまい、師のヴァーグナーとも絶縁。
19世紀末、いまでこそ世界の名門オケとなっているが、当時はまだ創立された
ばかりの新しいオーケストラ、ベルリン・フィルハーモニーの初代指揮者となる。
当時の音楽の中心だった南ドイツ(バイエルン・オーストリア)から離れて、
まだまだ新興二流のオーケストラの指揮者になり(名門オケといわれるように
なるのは、第三代指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラー以降のこと)、
再婚もせず、生涯独身で過ごした。
ヴァーグナーにその才能を認められて弟子となり、フランツ・リストにも
娘との結婚を許されるほどの才能がありながら、師と妻とに裏切られ、
失意のまま北ドイツ(芸術不毛の地)の二流オケの指揮者として生涯をおくった。
137 名前:
世界@名無史さん[sage]投稿日:2005/08/09(火) 00:03:33 0
古代ギリシャの詩人サッフォー
世界最初の女流詩人。その詩が同性愛的だといわれ、ほとんど破棄され
現代に残るものは2〜3編の詩と、いくつかの断片のみ。19世紀になって再評価。
死後2500年後に再評価……長杉!ある意味コイツが最強かもしれんw
139 名前:
ロートレアモン伯爵[]投稿日:2005/08/09(火) 12:53:22 O
本名イジドール・デュカス。南米ウルグアイに生まれパリに留学。
ロートレアモン伯爵の筆名で散文詩集『マルドロールの歌』を発表。
この作品は、二十世紀シュールレアリズム芸術の先駆として評されるも、
本人はそのことを知る由もなく、パリコミューンのバリケード内で病死。
享年24歳。
150 名前:
サントス・デュモン[]投稿日:2005/08/10(水) 01:18:36 O
航空黎明期の飛行家。
ブラジルでコーヒー農園を経営して巨万の富を築き、
フランスに渡り飛行機製作に没頭。
先尾翼式の画期的な機体でドーヴァー海峡を横断して注目さるも資産を食い潰し、
また、第一次大戦で飛行機が兵器として使用されるようになったことに失望して自殺。
151 名前:
スコット・ジョップリン[]投稿日:2005/08/10(水) 01:57:51 O
スコット・ジョップリン
[1867〜1916]二十世紀初頭の天才黒人音楽家。
『ジ・エンターテナー』『エリート・シンコペーション』『ベッシーナ』等、
今日でもよく聞かれるラグタイムの名曲を数多く作曲するも、
黒人ゆえに不当な扱いを受けた。
関係ないが、夏目漱石とほぼ同時代を生きた。
162 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2005/08/10(水) 12:53:49 0
歴史上の大発見には必ず同時に並行して行ってた人がいる。
ニュートンの微積分にはライプニッツ(これはある意味ニュートン以上の天才だから栄光無きとはいえない)
アインシュタインの相対性理論にはポアンカレ(コレもアインシュタイン以上の大物だから栄光無きとはいえない)
ゲーデルの不完全性定理にはタルスキ(コレも数学・分析哲学ではポーラント学派の巨人だから栄光無きとはいえないかも)
ダーウィンの進化論にはウォーレス(コレは栄光無き天才の典型だな うん)
164 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2005/08/10(水) 13:42:10 O
>>162自然淘汰って言葉はダーウィンじゃなくてウォーレスの言葉らしいね。
165 名前:
世界@名無史さん[sage]投稿日:2005/08/10(水) 14:17:46 0
知里幸恵(1903-1922)
アイヌのユーカラクル(叙事詩人)の家系に生まれ、金田一京助のユーカラ研究
に祖母や伯母とともに協力した。
女学校卒業後、『アイヌ神謡集』を編纂し、出版のために上京。持病の心臓病が
悪化して19歳で急死した。
167 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2005/08/10(水) 21:05:47 O
ケン・ノートン
ボクシングWBC第七代ヘビー級王者。怪力パンチャーとして名を馳せ、1973年にあのモハメッド・アリの顎を砕き、ノンタイトル試合ながら黒星をなすりつけるという歴史的大番狂わせを成し遂げ、一躍世界のトップに躍りでる。
その後のアリとのリターンマッチでは僅差判定で惜しくも敗れるが、「アリと互角に戦う男」という評価はむしろ確かなものになった。
78年にトップコンテンダーに登りつめ、王者レオン・スピンクスに挑戦するがなんと王者がこれを拒否。
WBCは1位挑戦者から逃げ回るスピンクスから王座を剥奪し、タイトルマッチを行わないままノートンを新王者に認定するが、この事で彼は「ペーパーチャンプ」と陰口を叩かれる事になってしまう。
その後ノートンは実力を証明してやろうと意気込んで初防衛戦に望むものの、不運にもその相手が後に超長期政権を築いてヘビー級に君臨するラリー・ホームズだった。
試合はお互い持てる力を全て出し尽くしながら一進一退する死闘となる。ホームズは後にこの試合を「生涯のベストマッチ」と語り、現在でもファンの間ではこの試合を歴史に残るベストファイトとして挙げる人が少なくないが、結果は無情にも2-1の僅差判定でノートンの敗北。
この試合で王座を失ったノートンは燃え尽きたのか、その後はパッとせず、再挑戦のチャンスも周ってこないまま81年にひっそりと引退。
アリとホームズという、歴史に残る名王者達に匹敵する力を持ち、互角の激闘を繰り広げながらも、彼には「世界戦で一度も勝てずに終わった世界王者」という不名誉な評価だけが残った。
170 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2005/08/10(水) 22:50:08 0
ジネット・ヌヴー
伝説的な女流ヴァイオリニスト。10代に満たない頃から既に公開演奏会を行い、名だたる名教師たちも彼女の才能には驚かされた。
16歳でヴィエニアフスキコンクールに出場し優勝。2次大戦が勃発するまでには既にヨーロッパ全土で熱狂的な支持を受けていた。
流派にとらわれない奔放なスタイルの奏者で、弓をハイフェッツのように持ったり、ティボーのように持ったりとちょくちょく持ち替えていた。
観客はびっくりしたが、彼女にしてみれば必要な時に必要な持ち方をしただけのことだったようだ。戦後、演奏活動に復帰したが、
1949年、アメリカに向かう飛行機が墜落し愛器ストラディヴァリとともに海に散った。享年30歳。
174 名前:
世界@名無史さん[sage]投稿日:2005/08/11(木) 18:59:47 0
ノルベルト・ブルクミュラー(1810-1836)
デュッセルドルフ市音楽監督の次男として生まれ、幼少から音楽の才能を現した。
メンデルスゾーンやシューマンとも親しかったが、交響曲第2番を作曲中に26歳で急死。
大成することなく終わった。メンデルスゾーンの「葬送行進曲」は彼の死を悼んで
作曲された作品。
兄のヨハン・フリートリッヒ・フランツ・ブルクミュラーは青年時にパリに移住し、
作曲家、ピアノ教師として生活。子供用のピアノ教則本「ブルグミュラー25番」
「ブルグミュラー18番」は現代でも不可欠の教材とされている。
どちらが幸せだったかはわからない
177 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2005/08/11(木) 21:44:41 O
黒沢俊夫
プロ野球選手。戦時中や戦後まもない選手不足の頃ではあるが、巨人軍の四番を担った。ホームスチールの名手で歴代二位の記録を持っている。
1946年、試合中に腸チフスを発症し、そのままシーズン中に急死。
享年33歳。彼の背番号4は永久欠番となった。
178 名前:
MR.MACK[]投稿日:2005/08/11(木) 22:25:37 O
MR.MACK
残念ながらCDにはMACKしか書かれていないが、
ザ・シフォンズが、1963年にビルボードにチャートインさせた
『He’s so fine』(邦題・イカシタ彼)の作曲者。
この曲がヒットする前に死亡していた。
しかし、これだけで終わったわけではない。
1970年に何と元ビートルズのジョージ・ハリスンこが、
この曲のメロディをパクった『マイ・スウィート・ロード』を発表。
盗作疑惑で大問題になったのである。
スッタモンダの末、ハリスンの謝罪で解決。
元歌を歌ったシフォンズは『マイ・スウィート・ロード』も録音した。
おしまい
183 名前:
イタリアのアマデウス[]投稿日:2005/08/12(金) 09:40:04 O
ジョヴァンニ・バティスタ・ペルゴレージ
[1710〜1736]
イタリア・ナポリ楽派不滅の作曲家。
わずか五年余りの期間に『奥様になった女中』『スターバト・マーテル』等の
名曲を残し、26歳で死去。
186 名前:
世界@名無史さん[sage]投稿日:2005/08/12(金) 10:04:59 0
>>183
ストラヴィンスキーが発掘して新古典派時代の作曲「プルチネルラ」の元ネタに使ってますね
184 名前:
世界@名無史さん[sage]投稿日:2005/08/12(金) 09:57:30 0
渡辺茂夫(1941−1999)
ヴァイオリニスト、作曲家。幼少より音楽教育をうけ、7歳で初リサイタル。
小学6年生でベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の公演をおこない「神童」
と呼ばれた。14歳のときハイフェッツに見出され、ジュリアード音楽院の
奨学生として渡米した。このころすでにソナタやオペラの作曲も行っていた。
ジュリアード音楽院に入学した後、大家の指導を受けたが、徐々に情緒不安定
となり、57年、睡眠薬を飲み過ぎて意識不明となり、脳に障害が残った。16歳。
58歳で無くなるまで32年間、言葉を解するほどに回復することはなかった。
192 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2005/08/12(金) 11:45:11 O
>>184渡辺茂夫!彼がアメリカに渡ったのは戦後間もない頃で
日本人という事で差別もされてたようだね。神童とはいえローティーンの少年には辛かっただろう…。
すでに自分のスタイルを確立していた彼はジュリアードの教育にも合わなかったらしいね。
大成していたら、どれ程の演奏家になっていた事か…。
198 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2005/08/12(金) 20:46:57 0
アンリ・フィリップ・ペタン(1856 - 1951)
フランスの軍人。第1次大戦での司令官でヴェルダンの英雄として武名を轟かした。
マジノ線建設の提唱者でもある。1940年にフランスがナチスドイツに降伏すると、
ヴィシー政権の議会から首相に任命される。
ナチスドイツと手を組んで枢軸側につくこと、フランスのユダヤ人を収容所に送ることなどには反対していたが、
戦後「ファシスト政権に協力した」として、連合軍の裁判によって死刑宣告されてしまう。
ドゴールの取り計らいで終身刑に減刑されるが、南仏のユー島に島流しにされ1951年にそこで生涯を終えた。
201 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2005/08/12(金) 22:39:39 0
福永洋一 騎手
1968年デビュー。1970年から1978年まで9年連続JRAのリーディングジョッキーと
栄光ありまくりだが、79年落馬事故により脊髄損傷で引退。
引退後テレビでほんの少し出ていたのを見たが、車椅子に乗って体の自由が
ほとんどきかず言葉もろれつが回らない状態なのは痛々しすぎた。
204 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2005/08/13(土) 11:03:39 O
マーヴィン・ゲイ
70年代に活躍した革命的ソウル歌手。「What's going on」など名曲多数。
実の父親に撃ち殺される。墓の場所は未だに伏せられている。
217 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2005/08/15(月) 13:07:29 0
エチエンヌ・モンゴルフィエ(Jacques Etienne Montgolfier(1745-1799)
モンゴルフィエ兄弟の弟で、熱気球の他にも
圧力ポンプを作り名声を得た。しかし、革命の動乱に
巻き込まれ死去。
もりいずみの「化学の先駆者たち」にくらいしか、モンゴルフィエ
兄弟のその後の話は載っていないのだな。何故だろう?
モンゴルフィエ家とゆかりのある製紙会社CANSON社は、今でも
フランスに残っていたりする。
225 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2005/08/16(火) 23:25:20 0
ウイリアム・ハミルトン
アーベルやガロアと並んで悲運の天才として知られる。
6歳で6つの古典語を習得し、12歳でニュートンのプリンピキアを読破し
13歳で13ヶ国語をマスターし、16歳でラプラスの「天体力学」の誤りを指摘するという
天才ぶりで、複素数の導入法などで数学史上の巨人としてその名を残すが
私生活は恋愛、結婚生活の破綻などに悩み、アル中になって孤独な晩年を過ごした。
235 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2005/08/20(土) 00:59:44 0
フランソワ・セヴェール(1944〜1973)
フランス人のF−1レーサー。
甘いマスクで人気があり、女優のブリジット・バルドーと一時期交際していた。
1970年にF−1デビュー。1971年にティレルチームに加入してからはめきめきと頭角を現し
将来のワールドチャンピオン候補とまで言われた。また、当時はフランス人でワールド
チャンピオンになった者は誰もおらず、セベールにフランス人初のチャンピオンの期待が
かけられていた。
しかし、1973年アメリカGPの予選中に事故死してしまった。猛スピードでガードレールに
突っ込んでマシンごと胴体も真っ二つに裂けてしまうほどの凄惨な事故だったという。
この事故のニュースは日本の新聞の三面記事にも「仏の人気レーサー事故死」と取り上げられた。
なお、フランス人初のチャンピオンはアラン・プロストが1985年に獲得している。
238 名前:
世界@名無史さん[sage]投稿日:2005/08/24(水) 05:39:12 0
エリック・ドルフィ
1960年代のジャズミュージシャン。
1960年に初リーダー作を発表し4年後の1964年に病死。享年36歳。
当時、彼の演奏はあまりにも前衛的すぎたため受け入れられず
かなり貧しい生活をしていたという。
楠木正成
あまりにも有名な天才武将。南北朝時代の名将。
もとは悪党と呼ばれる河内の豪族(諸説あり)だったが、
後醍醐天皇の下に入り、挙兵する。
赤坂城、千早城での篭城では 天才的な戦略で敵を悩ませた。
彼の優れた兵法は江戸時代に楠木流という軍学になった。
建武の親政でも、後の世の流れを読み、
足利尊氏をはじめとした武士を軽んずること無いようにと考え
天皇に進言するも受け入れられなかった。
正成の不安は的中。
足利尊氏は離反し、一度は撃退に成功する。
尊氏は九州で再起し、京へ進軍してくるが
その勢いはとても止められそうにはなく、正成は和睦を提案するが
退けられ、次に挟み撃ちの妙手を提案するも、これも坊門清忠によって
反対され、湊川で正面から迎え撃ち、壮絶な戦い後自害して果てた。
253 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2005/08/29(月) 11:39:42 0
三代目三遊亭歌笑。
敗戦直後「純情歌集」で爆笑王に。
1950年進駐軍のジープにはねられ、死去。
262 名前:
世界@名無史さん[sage]投稿日:2005/09/03(土) 14:53:02 0
ティベリウス。ローマ帝国第二代皇帝。
最近まで評価は「陰険で渋ちんな変態ジジイ」だったが
ローマの土台を固めた堅実な治世がようやく現代になって再評価。
あと塩婆の文庫本でも認知度高まりそうな予感。
263 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2005/09/03(土) 22:19:25 0
ベリサリウス
ユスティニアヌスに使えた東ローマ帝国の将軍。数々の戦いで
奇跡的な勝利を重ねたが、ユスティニアヌスには冷遇され続け、
最後まで不遇だった。
266 名前:
世界@名無史さん[sage]投稿日:2005/09/04(日) 00:01:02 0
大正天皇。
優れた感受性を持った詩人。
しかし、時代と国家が彼をナチュラルに生きることを許さなかった。
偉大すぎる父親と周囲の過度の期待に押しつぶされ、健康を害し
挙句の果てに知恵遅れとまで汚名を着せられ、その生涯を無かったことにされる。
がしかし、彼こそは日本に現れた「最初の現代人」であった。
思ったことを包み隠さず言う、感じたことを正直に吐露する、家族を愛し一夫一妻を貫く…
果たして彼が現代に生きていたら、同じように汚名を着せられただろうか?
279 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2005/09/06(火) 22:37:44 0
豊田喜一郎
いわずと知れたトヨタ自動車の創始者。
苦労を重ね、第一号車トヨタA1を完成。
乗用車を作ろうとするも戦時下で殆ど作れずトラック生産で規模を拡大する。
戦後再度乗用車制作に乗り出そうとするもうまくいかず労働争議で社長辞任。
ようやく社長に復帰することになった矢先に急死。
復帰後生産しようとした乗用車の設計図を持ったまま死んだという。
284 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2005/09/07(水) 17:32:27 0
エウメネス(BC:360-315)
アレクサンドロスの書記官から、一軍の将帥にまで駆け上がった
異色の能吏。大王亡き後のディアドコイ(後継者)戦争の前半戦では、
ディアドコイ唯一の外国人でありながら大王家に最後まで忠誠を
尽くす。しかし最終局面で最強の歩兵集団「銀盾隊」の離反にあい、
旧友にして宿敵・アンティゴノスに敗退。
アンティゴノスはばっかに加えようとするも、周囲の反対にあい、
自らの手を下すには忍びず餓死させようとする。しかし、エウメネス
は捕縛された後、何者かによって殺害されてしまっていた。
享年45歳。
ギリシア人とされるもののその出自も不明で、確かな基盤がなかった
にも関わらず、文官から軍人に転身しながら劇的な勝利を積み重ね
た、アレクサンドロス麾下の中でも屈指の名将だった。
301 名前:
世界@名無史さん[sage]投稿日:2005/09/10(土) 16:40:28 0
サルバドール・アジェンデ(1908〜1973)
「サンチャゴに雨が降る」
チリの政治家、医師。
1970年大統領選に勝利し、世界初の自由選挙による社会主義政権が樹立された。
企業の国有化、農地改革など社会主義政策を推進した。
しかし、社会主義が南米に波及することを恐れたアメリカの工作により
1973年9月11日、陸軍大将のピノチェトによる軍事クーデターが発生、大統領
官邸が攻撃され、大統領自ら銃を手に取り応戦。砲弾が飛び交う中、最後の
ラジオ演説を行い、その後自殺した。
302 名前:
名無しさん@そうだ選挙に行こう[]投稿日:2005/09/10(土) 18:15:55 0
ゼンメルワイス1847〜1865
1847年ウィーンのゼンメルワイスは、やはり産褥熱が伝染することを唱えた。彼はナー
スだけが治療する病棟では産褥熱があまり起こらず、医師や学生が治療する病棟では産褥熱の
発生率が高いことを知っていた。
そこで、彼は患者の治療にかかる前に必ず手を石炭酸で洗った。産褥熱の発生率は劇的に下がった。
しかし彼の主張は医師から猛烈な反発を受けた。彼は嘲笑され、つまはじきされて、精神病
院でなくなっている。
306 名前:
名無しさん@そうだ選挙に行こう[]投稿日:2005/09/10(土) 22:55:35 0
鈴木梅太郎1874〜1943(明治7〜昭和18)
農芸化学者。東京帝大を卒業後、クワの研究などで実績を積み、ドイツ留学後は盛岡農林学校で、当時深刻な社会病であった脚気の治療法について研究するようになる。
鈴木はニワトリの白米病と脚気の共通点に気づき、ニワトリに米ぬかを混ぜた餌をやると白米病が治ることから、米ぬかに脚気に効く未知の成分が含まれていると推定、
研究の結果それをついに発見。それが後に「ビタミンB1」とよばれる成分であった。
鈴木はその成分を「オリザニン」と名づけ論文を発表するが、日本国内で彼の発見は完全に黙殺されてしまう。
ビタミンという成分を名づけたのはポーランドのカシミール・フンクである。フンクの論文発表は鈴木のそれの8ヶ月後。
もし鈴木がヨーロッパで論文を発表していたら、今頃我々は「オリザニンA」とか「オリザニンC」とか呼んでいたかも知れなかったのだが…
308
名前:
名無しさん@そうだ選挙に行こう[sage]投稿日:2005/09/11(日)
02:46:22 0
>>306
理化学研究所ではそれなりの職を得ていたので
「栄光なき」とまでは言えないと思う。
世界的名声をつかみ損ねてちょっとかわいそうなのは
事実だが。
310 名前:
名無しさん@そうだ選挙に行こう[]投稿日:2005/09/11(日) 17:57:46 0
アルフォンソ10世 1221-1284
レコンキスタの英雄で「聖王」の称号を送られたフェルナンド3世の息子。
「七部法典」の編纂に代表される法律の整備、聖母マリア頌歌集、「大歴史」の編纂など、
その文化的功績は多大で「賢王」の名をおくられる。
が、その一方で親父の功に便乗したアフリカ遠征には失敗、その結果、国内のイスラム教徒の反乱を招き、
さらにそれらを収める為にとった中央集権的姿勢が、世論と貴族等の反感を招き、王位継承権をめぐって次男サンチョ王子との決裂を迎えるなど、
政治的、軍事的にはボロボロ。骨肉相食む政争の結果、セビリャに追い込まれ、1284年、無念の死を迎えた。
むしろこういうのは栄光ある悲劇的人生というべきなのかも。
345 名前:
世界@名無史さん []投稿日:2005/09/19(月) 10:45:09 0
シャルンホルスト Scharnhorst Gerhard Johann
David von 1755〜1813
1755〜1813 プロイセンの将校・軍制改革者。
はじめハノーヴァー軍(1778),その後プロイセン軍(1801)に入隊し,ベルリンの士官学校長となる。
またブラウンシュヴァイク公の参謀長としてアウエルシュタットの戦い(1806)に参戦する。
ティルジットの和約(1807)後,軍隊再編委員会議長・参謀総長となり,開明的な将校として,
グナイゼナウ・グロルマン・ボイエン・クラウゼヴィッツなどの協力を得て,
さまざまな軍制改革を実現することになる。
彼の改革理念は,ナポレオン軍に範をとる国民軍の創設であり,
それは彼の死後一般兵役義務として実現した(1814)。
彼の軍制改革は,シュタイン・ハルデンベルクによる国家・経済の再編,フ
ンボルトによる教育政策とともに,近代プロイセンの基礎を築いたといえる。
1813年にロシア皇帝アレクサンドルと軍事同盟を結び解放戦争をはじめたが,
その後グロスゲルシェンの戦いで負傷し,プラハで没。
365 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2005/09/27(火) 09:36:51 0
グナイゼナウ 1760〜1831
プロイセンの軍人。オーストリア軍、アンスバハ軍に入隊、アメリカ独立戦争に参加。
その後、プロイセン軍に勤務し,ナポレオン戦争ではティルジットの和約までコルベルク要塞を防衛。
1807年からのプロセイン改革ではシャルンホルストを助けてプロセイン軍の軍制改革を行う。
解放戦争の際にはブリュッヘル軍の参謀長となり、ライプチヒの戦いやワーテルローの戦いにてナポレオン軍を破るのに貢献。
しかしウィーン体制時には、プロセイン国王に自由主義的思想を忌避され、1816年に引退に追いやられる。
1831年ポーランドの蜂起の際に再起用されるがコレラにかかって死亡。
371 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2005/10/02(日) 14:02:05 0
カントールは悲惨だな。
無限数についての理論を発表したら、当時の数学界からすごい非難を浴びて参ってしまい、
最期は精神病院送りになった。
本人も発表するかどうか10年くらい迷っていたんだけど。
現在では常識となっている理論なんだが。
375 名前:
世界@名無史さん[sage]投稿日:2005/10/10(月) 00:26:54 0
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853〜1890)
日本では特に人気が高い非常に有名な印象派の画家。
代表作は「糸杉」、「ひまわり」、「アルルの跳ね橋」など。
人間性はともかくとして、画家としては間違いなく天才。
激しい性格のため人付きあいが極端に苦手で
2度の大きな失恋を経験し、仕事はどれもうまくいかず
ゴーギャンと喧嘩の末、耳を切り落とし
精神病になった挙句、最後はピストル自殺を遂げる。
彼は沢山の絵を描いたが、生きている間に売れた絵は
たった一枚だったといわれている。
378 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2005/10/10(月) 18:57:41 0
シャルル豪胆公 1433−1477
ヴァロア=ブルゴーニュ家の第4代にして最後のブルゴーニュ公。
シャルル豪胆公の父はフランスと神聖ローマ帝国の間に半独立の王国を築いて隆盛を誇っていた。
百年戦争末期、シャルル豪胆公はその父の築いた国土をさらに拡大すべく周辺に征服戦争を仕掛けるも失敗。ナンシー攻囲戦中に戦死。
しかも跡取りは娘一人しかおらず、その一人娘を自身の戦死後にフリードリヒ3世の息子にもっていかれたため、彼の広大な領地は死後には全部ハプスブルグ家のものになってしまった。
379 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2005/10/10(月) 21:13:57 O
>>378そこからハプスブルグ家が一気に栄えるんだもんなw
396 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2005/10/17(月) 11:34:02 0
堀井元紀・堀井新治朗
ガリ版と謄写版印刷機の発明者。コピーやファックスの普及で忘れられた懐かしのガリ版印刷は、実は日本人の発明である。
堀井元紀は明治時代の内務省の役人で、書類仕事に軽印刷機が必要と考え、独力で開発に着手。
役所仕事より発明にのめり込み、職を辞してまで没頭するようになる。息子の新治朗も三井物産を辞め、父の後に続いた。
面白いことに彼らの発明に刺激を与えていたのは実はあの発明王エジソンであった。
彼らがガリ版印刷発明に取り組んでいたのは、丁度エジソンが日本の竹を利用して電球の発明に成功したころである。
親子は明治男らしく「日本のものを外人にばかり利用されてたまるか!」とひそかに対抗心を燃やしていたのだという。
二人は家財を売り払ってようやく軽印刷機を完成させ、役所に申請をするが、いまだに毛筆を使って仕事をしていたお役所からは胡散臭い目で見られ、書類不備という名目で門前払いをくらってしまう。
この窮状を救ったのは意外にも帝国陸海軍であった。折りしも日清戦争勃発で大量の書類発行が必要だった軍が彼らの発明に目をつけたのだ。彼らの軽印刷機は命令書の印刷などで大活躍し、一躍新時代のスタンダードとなった。
さらに親子は「ミリアタイプ」という輪転機型の謄写版印刷機を発明。これは欧米でも大ヒットした。
印刷機の面では、この親子はエジソンに完勝したといえる。
(栄光なき、というかガリ版とともに発明の栄光がすっかり忘れ去られているので書いてみました)
411 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2005/10/24(月) 20:31:36 0
フェルディナント・ラッサール (1825-1864)
ユダヤ系ドイツ人の政治学者、。マルクスと知り合い、社会主義者の道へ。
1862年に「労働者綱領」を著し、当時の自由主義国家を批判し、いわゆる「夜警国家論」を説いた。
1863年に全ドイツ労働者協会(現在のドイツ社会民主党)を創設。生産組合と普通選挙による国家社会主義の実現を主張した。
その全ドイツ労働者協会の会長任期中、女性をめぐる決闘でわずか39歳で死去した。
416 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2005/11/02(水) 22:22:28 0
龐涓
優れた兵法家であり、魏の将軍にまで出世するが、同門の孫臏(孫子)の才能に嫉妬し、罠を仕掛けてスパイ容疑をきせ、彼を足切の酷刑に処す。
そのとき同門ということで命まではとらなかったことが彼の運命を決めてしまった。
その13年後、斉と魏が戦争になると魏の将として活躍するが、斉の軍師になっていた孫臏の策略に嵌り、馬陵で包囲され
「遂成豎子之名(遂に豎子の名を成さしむ;とうとう、あの小僧に名を成さしめたか)」という言葉を残して自害した。
孫子の兵法を語るエピソードに必ず出てくるヤラレ役。
427 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2005/11/07(月) 20:37:37 O
フランツ・ヨーゼフ1世(1830‐1916)
19世紀のオーストリア帝国の皇帝。ハプスブルグ家崩壊の悲劇の中心的人物。
非常に勤勉で生真面目な人物で、わずか18歳で即位した後に素早く革命を鎮圧するなど、皇帝というより軍の官僚のような資質の持ち主。
が、その後はイタリア統一戦争、普墺戦争などに敗北。絶対王権の信棒者であったが、国内外の政情不安や民族問題にも苦慮。
オーストリア・ハンガリー二重帝国成立、普仏戦争、三国同盟…と、彼の人生はそのまま19世紀‐20世紀初頭のヨーロッパ史と言っても過言ではない。
彼がサラエボ事件で甥が暗殺された事を受け、セルビアに宣戦布告した事で第一次大戦は始まった。
激動の中で、最愛の妻や息子や弟などを次々と失い、自身は大戦中の1916年にウィーンで死去。
428 名前:
世界@名無史さん[sage]投稿日:2005/11/08(火) 21:23:00 O
ヘティ・グリーン
19世紀のアメリカで名を轟かせた無敵の女相場師。ウォール街の魔女の異名をとった。
1835年に富豪のクェーカー教徒の娘として生まれる。子供の頃から天性の経済センスの持ち主だったらしい。加えて幼い頃から目の不自由な祖父に経済新聞を読み上げさせられたりしていたために彼女のカンは更に研ぎ澄まされていった。
1860年に両親が死去、莫大な遺産を相続する。そしてその翌年に南北戦争が勃発。
当初は南軍が優勢であったが、ヘティは最終的には北軍が勝つと見込して、二束三文だった米公債を両親の遺産をつぎ込んで買い叩いた。
するとその5年後に彼女の予想通り北軍が勝利を収め、公債は暴騰。賭けに勝った彼女は莫大な利益をあげ、一躍アメリカ有数の大富豪となる。
だが、そうした一方で彼女が異様だったのは、この時代の女性としてはおそらく世界一の資産家となりながら、同時にギネスが公認するほどにケチな倹約家だった事である。
ほとんど洗濯しない一張羅に身を包み、水も火も徹底的に倹約し、朝食のお粥も温めずに食し、ボロの安アパートを転々とするホームレスのような生活だったという。
それでいながら大陸横断鉄道に先行投資するなどしてビジネスには勝ち続け、資産をどんどん増やしていった。
1867年には大金持ちと結婚するが、抜け目なく財産の管理は完全に別ける契約をしておき、後に夫が事業に失敗して破産しても全く影響を受けなかった。あだ名通り魔女のような人物だった。(続く)
429 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2005/11/08(火) 21:28:48 O
(続き)
だが、ビジネスに勝ち続けても人生は難しい。彼女には息子と息女がいたが、ある時息子のネッドが足に怪我をした。しかし医療費を惜しんだヘティはなかなか病院に連れていかなかった。
子供を愛していなかった訳ではなかったが、その愛情を表現するのに金がかかる事を彼女の心が許さなかったのだ。
あまりに息子が泣くので、仕方なく慈善施設の無料診療所に連れていくがその時には既に手遅れで、ネッドは壊死した足を切断する羽目になってしまう。
この事が世間に知れるとヘティは「悪魔の様な女」とアメリカ中から叩かれた。(それも仕方がないであろう)
その後も彼女は株式投機などで資産を増やし続けたが、誰からも愛されず信用されず孤独な晩年を過ごした。
息子のネッドは親を反面教師にしたのか、それとも復讐の意味合いもあったのか、ビジネスに全く興味のない放蕩息子に成長し、1916年にヘティが寂しい最期を迎えた後も散財を続けた。
息女の方は慈善事業に熱心で、ヘティの遺産を貧しい人々に分け与えたという。
全ては還るべき処に還っていったということだろうか。
486 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2005/11/29(火) 17:49:44 O
ジュール・ブールデ
普仏戦争敗戦後、パリに象徴的建築物を作ろうという事になり、建築家の彼が高さ360m以上の「太陽の塔」案を出した。
頂上部が巨大な鏡になっていて、パリを照らす予定だったという。
彼の壮大なアイデアは9割方支持されてたのだが、土壇場でギュスタブ・エッフェルの鉄塔案が「軍事用にも転用できる」という理由で採用され「太陽の塔」はボツ。そうして作られたのがエッフェル塔。
彼の案が採用されていたら、パリの街の歴史も変わってたと思うが…。
490 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2005/12/03(土) 23:41:54 0
松浦静山
織田信長「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」
豊臣秀吉「鳴かずともなかして見せうホトトギス」
徳川家康「なかぬなら鳴くまで待つよホトトギス」
とそれぞれの天下人の人柄を評した詩は有名だが、この詩の作者である静山は意外に知られていない。
松浦静山は江戸時代に生きた長崎の平戸藩の名家の当主で、生涯に膨大な量の文章を残し、それを「甲子夜話」という随筆集にまとめた。
このホトトギスの詩もその中に収められているものである。静山の随筆集は郷土史や江戸時代の庶民の生活などを語る上で非常に重要だという。
ちなみにこのホトトギスの詩には続きがあって、
「鳴かぬなら鳥屋へやれよホトトギス」
「鳴かぬならもらって置けよホトトギス」
という句で結んでいる。これは時の将軍である家斉が、先に詠んだ戦国武将たちと比べて太平を謳歌して脳天気なのを皮肉ったものと、この頃の庶民のしたたかさを詠んだもだと言われている。
496 名前:
世界@名無史さん[sage]投稿日:2005/12/10(土) 00:23:16 0
ヘンリー・ダーガーなんて栄光なき天才…天才だよな…きっと
本人はあの絵が発掘されてあの世で身悶えしてると思うが
俺なら自殺する
505 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2005/12/12(月) 20:42:09 0
レフ・セルゲイヴィッチ・テルミン
楽器テルミンの発明者。20世紀初頭のロシアの激動に巻き込まれる。
アメリカに渡るがソ連の秘密警察に拉致されシベリア送り。その後軍事技術の研究に従事させられた。
525 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2005/12/28(水) 10:35:03 0
アルフレッド・ウォレス(1823 - 1913)
イギリスの博物学者、生物学者。モルッカ諸島で集めた標本を売るなど、金に困りながらも独自の研究を続け、進化の自然淘汰説にたどり着いた。
彼はそれを論文にまとめ、学会に発表して欲しい、とチャールズ・ダーウィンに送りつけるが、同時期に同じような事を考えていたダーウィンはウォレスが先に論文を発表しようとしたのを知りあわてて論文を作成し、同時に論文を発表することにした。
自然淘汰を先に発想したのはウォレスだったが、ダーウィンは論文の発表の際、自分の名前を先に挙げていた。そのためウォレスの名前はダーウィンの影に隠れて埋もれてしまうこととなる。
その後彼は標本採集のためにアマゾンにでかけるが、英国に帰る際に船の火災でせっかく集めた標本が焼けてしまうなど苦難が続いた。
そのせいか晩年は神懸ってしまい、自らの自然淘汰説も撤回してしまった。結局学会から認められることなく不遇のうちに世を去った。
今では彼が発見した「ウォーレス線」という生物の生態系が変化する境界線にその名が残るのみである。
527 名前:
世界@名無史さん[sage]投稿日:2005/12/28(水) 11:37:16 0
>525晩年のウォレスが降霊術にはまって神がかったのは事実だけど、自然淘汰説は撤回していなかった…はず。
(グールド先生の本からの受け売りだけど)ウォレスはダーウィン以上に自然淘汰説を金科玉条としていたため、
生存に役立つわけではない知能や感情といったものが人間に発達する必然性がないという矛盾に直面して
「人間だけは神によって特別に作られた」というような考え方にシフトしていったらしい。
528 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2006/01/02(月) 10:40:52 0
ジョルジュ・ビゼー 1838-1875
フランスの作曲家。声楽教師の父とピアニストの母をもち、幼い頃から天才ピアニストとして頭角を顕す。
「この曲を弾きこなせるのはビューローだけだろう」と豪語していたリストの新作を完璧に演奏してみせて彼を驚かせたりもした。
本人はピアニストよりもオペラなどの劇音楽の作曲家になることを夢見ていた。
が、その完成作はあまりに少なく「カルメン」などの作品が評価を得る前に他界してしまった。
555 名前:
世界@名無史さん[sage]投稿日:2006/02/23(木) 01:48:59 0
Charles Cros (1842-1888)
フランスの詩人で発明家。詩人としては死後そこそこ評価された。
「録音と再生の方法」という論文をアカデミーに出したのはエジソンの
蓄音機の発明より先だったが、エジソンに先に特許を取られ、
「カラー写真(三色写真)」などの理論も発表していたが
特許は取得できず、死ぬまで貧乏だった。
詩人たちの集まるサロンには顔を出していたが、ランボーに
嫌われていたらしく、席を外したすきにグラスに硫酸を入れられた
こともあったという。
619 名前:
今日は海軍記念日[]投稿日:2006/05/27(土) 14:23:54 O
ジャン・コクトーに絶賛された天才画家
■大塚耕二[1914年9月28日熊本県〜1945年7月30日ルソン島]
1939年、帝国美術学校西洋画科卒
在学中の1936年5月、第二回表現展に展示された
大塚らの作品を見て感銘を受けたコクトーは、
大塚の手を握りしめ、早口で熱っぽく語りかけたという。
1941年6月応召、翌年出征。満洲ハイラルを経て、
1944年10月西部第21部隊、熊本野砲隊の一員として比島決戦に従軍した。
終戦直前の7月30日、ルソン島プログ山において戦死。享年三十。
1937年に制作した「トリリート」は日本シュールレアリズム絵画の傑作と言われる。
657 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2006/07/02(日) 17:19:01 0
カミーユ・クローデル(1864-1943)
フランスの女流彫刻家。
若い頃から彫刻に天才的な才能を示し、ロダンの弟子・モデル・愛人となる。
しかし、カミーユの作風があまりにもロダンのそれと似通っていたために、
模倣だ盗作だの噂され、自分の作品が売れないのはロダンのせいだと思い込む。
ロダンの家の前で暴れたり、自らの作品を壊すに至り、1913年、精神病院に入院。
以後、30年間そこで過ごす。
682 名前:
まとめ[sage]投稿日:2006/08/01(火) 22:00:02 0
ルイ=アレクサンドル・ベルティエ
ナポレオンの任命した帝国元帥26人のうちの一人。
事務能力に優れた典型的な副官タイプの軍人で、ナポレオンがイタリア方面軍司令官に赴任してきた時に抜擢されて参謀長となった。
独創性には乏しかったが指揮官の命令に対する理解力は卓絶しており、それを最良の形で各部隊に伝達し、指導する能力に長けていた。
その後のナポレオンの戦いのほぼ全てにおいて、ベルティエは正確かつ迅速に軍務をこなし、ナポレオンも彼を理想的な参謀長として高く評価した。
しかしナポレオン没落の転機となった1812年のロシア遠征での作戦会議で、両者は意見は食い違いから衝突してしまい、これ以降、ナポレオンはベルティエを遠ざけるようになった。
(衝突の発端は他の元帥の副官のスパイ疑惑に関する件で、結局はベルティエの方が正しかった)
1814年、ナポレオンが同盟軍に敗退して皇帝の座から退位すると、ベルティエはナポレオンに見切りをつけて彼の元を辞した。その後は王制を支持してルイ18世に仕えた。
だがナポレオンがエルバ島から脱出したという知らせを聞き、旧主に対する忠誠と恐怖、現在の立場との板ばさみに苦悩し、自宅の窓から身を投げて自殺した。
ナポレオンは再起のためにベルティエの力を必要としていたから彼の裏切りも許すつもりでいた。100日天下の間も、その不在を度々嘆いたという。
運命のワーテルローの戦いも、ベルティエがいれば勝てたと言われている。
684 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2006/08/07(月) 23:47:22 0
>>682ワーテルローの時に、ベルティエの代わりに参謀長になったスールトは
あくまでも前線指揮官で全体を統括する参謀向きじゃなかったからねえ。
自身はパリに残って後方を固めていたダブーも、ベルティエの不在を危惧していた。
その不安はナポレオン軍の連携の崩壊という形で的中してしまったわけだ。
719 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2006/08/19(土) 12:40:05 0
八木秀次
1925年、八木秀次によって世界初の指向性アンテナの原理が発見され、八木
アンテナが発明されました。いまでは、どの家にもあるテレビアンテナにな
っています。3本の素子を基本にして平行に並べ電波を効率良く受信・発信
する構造のアンテナです。
簡潔にして無駄のない八木アンテナは、はじめからほとんど改良の余地のな
い高い完成度をもち、超短波用アンテナとして外国の模倣を許さないもので
した。
八木アンテナは、八木秀次が私財を投じてかろうじて特許を取得したものの
当時の日本科学界は西洋崇拝が強く「日本人の発明で重要なものはあり得な
い」として当時の学界では受け入れられませんでした。
八木アンテナは一部に知られただけで、それを記載した八木の論文は、日本
で忘れられました。その特許も国から延長が認められず消滅してしまいまし
た。そもそも*テレビやアンテナについての当時の日本の研究・開発は、世
界的にリードしていたにもかかわらず科学界や国から認められず埋もれてし
まい、大変惜しいことでした。
特に精神主義をふりかざす軍人は、八木アンテナレーダーの有用性を頭から
認めませんでしが、八木アンテナの論文は、海外で評価され超短波用高性能
アンテナとして認められていきました。
(*1926年に高柳健次郎がブラウン管式テレビの実験に成功している)
720 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2006/08/19(土) 12:43:47 0
1941年太平洋戦争が起き、シンガポールを攻め落とした日本軍は、そこのイ
ギリス軍のレーダーアンテナが八木アンテナであると知らされました。アメ
リカ軍も八木アンテナを装備し、攻め寄せる日本の飛行機を300km前から
レーダーでキャッチし迎撃しました。闇夜でもレーダー射撃で正確に日本艦
を撃沈し、日本軍はやっとレーダーの威力とその重要性に気付きました。
しかしもう後の祭りです。日本はアメリカに破れ、無条件降伏しました。
八木アンテナがアメリカのレーダー等に使われ日本が負けたことについて当
時の世間は、発明者の八木秀次を国賊よばわりされました。
八木秀次の世界的な発見・発明である八木アンテナを敵である英米は認め、
それを活用し戦いに勝利しました。反対に日本は、日本人である八木秀次の
発明を理解せず軽視しその結果敗北し、挙げ句の果てによけいな発明をした
とばかりに冷たくしました。自国の優れた発明を使いこなせなかったことを
棚に上げて八木秀次個人を責めるのは、天につばをするようなものです。
当時の政府要人や帝国陸海軍は、大和魂などの精神主義に陥っていたため先
端科学を理解できず惨禍を招いてしまったのでしょう。そしてそれは、日本
人の短絡性と同時に当時の社会の半封建的後進性を示しています。
まだ、この話には余談があります。
八木アンテナの特許を政府は消滅させてしまい、また外国特許保有の財政支
援もせず冷遇した為、日本の八木アンテナの特許権は失われてしまいました。
ところが戦後まもなくテレビが世界中に普及した時、八木アンテナも同時に
全世界に普及しました。VHFテレビ電波を受信するには八木アンテナ以外にな
いのです。もし、この時代この特許を日本が確保していたらおそらく世界に数
億台のテレビと同数売れた八木アンテナから莫大な特許料が日本に入り、日本
の戦後復興は大いに助けられたことでしょう。
もし、八木アンテナ発明と同時期の高柳健次郎の電子テレビ実験成功を評価し、
研究支援を行ってテレビの発明・実用化に成功していたならば、日本は、テレ
ビとテレビアンテナの両方を発明し、その恩恵は測り知れないものになってい
たでしょう。
732 名前:
世界@名無史さん[sage]投稿日:2006/10/18(水) 00:18:34 0
ニコライ・パブロビッチ・コロレフ
ソ連の宇宙開発に携わったエンジニア
ヴォストークロケットなどの開発に携わり、今日のロシアの
ロケット技術の基礎を築いた人物
が、スターリン時代に強制収容所に入れられてた過去を
持つため、死ぬまで表舞台に出られなかった悲劇の天才
死んだ後は名も明かされて一応名誉は回復された
756 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2006/12/22(金) 22:33:57 0
ファッツ・ナバロ
40年代後半のビバップの時代を駆け抜けた天才トランペッター。
その滑らかで厚みのある演奏はハード・ビバップの先駆けとなった。
わずか26歳で結核で夭逝し、録音された音源が少ないのと
デイジー・ガレスピーとクリフォード・ブラウンという二大スターの時代にひっそりと挟まれているため
影が薄く、評価が十分とはいえない。
764 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2006/12/27(水) 14:29:32 O
ハンス・ピーチ
珍しいドイツ出身のプロ囲碁棋士。ヨーロッパ大会を制した後に故郷ブレーメンからプロ棋士になる事を夢見て来日。
10年ほどの修行の後、1997年に入段。2000年には四段まで進んだ。タイトルの獲得などはなかったものの、囲碁が心から好きで、国境を超えた国際的な囲碁の普及活動に尽力した。
しかし2003年、その活動の一環でグアテマラを訪れた際、車で移動中に強盗にあって不運にも射殺されてしまった。
運転手が気をきかせてグアテマラの風景を観せようと、山道へと回り道した事が裏目に出てしまったのだという。
享年45歳。死後に日本棋士会から六段を贈られた。故郷のブレーメンでは彼の名を冠した囲碁の少年大会が毎年開催されている。
782 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2007/03/02(金) 00:13:20 0
ティトゥス・ラビエヌス
ユリウス・カエサルと同年の生まれと言われ、護民官時代からカエサルと共に職務を遂行し、
ガリア戦役では初年から最終年までを副将として戦い抜く。
巧みな指揮からカエサルに全幅の信頼を置かれ、複数軍団の指揮をこなせた数少ない将。
また、第10軍団をカエサル麾下の最精鋭に育て上げたのもラビエヌス。
後のローマ内乱ではポンペイウスの下につき、長年の友人であるカエサルと幾度も刃を交える。
カエサルから離反する際には旧部下の切り崩しなどを行わず、家族と従者のみを連れて去った
その後も反カエサル陣営のエースとして各地を転戦するが、ムンダの会戦で戦死・・・
野心とは無縁の武人であったが、帝政ローマにおいては「神君カエサルを裏切った悪人」として断罪
され、その名誉が回復される事はなかった
806 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2007/06/04(月) 10:35:59 0
ヒャルマー・シャハト
1920、30年代ドイツの経済学者かつ政治家
1920年代ドイツ敗戦後のハイパーインフレを新通貨発行等の経済政策により収拾。
1930年代世界恐慌で極度の不況にあえぐドイツを、大規模な財政支出により克服。
大規模な財政赤字には当時の財政学の常識から非難の的となったが、
後のケインズ政策のまさに先進的な実践だった。
現実を見極める柔軟な頭脳により当時としては近代経済の未知の現象であった
インフレとデフレに対して驚嘆すべき適切な対策を打ち出し、しかも成功させた。
戦後はヒトラーの協力者として評価は全く地に落ちたが、この人ほど正当に
評価されない人も珍しい。
850 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2007/12/08(土) 22:31:32 O
851 名前:
世界@名無史さん[]投稿日:2007/12/09(日) 01:06:23 O